音曲日誌「一日一曲」


ノン・ジャンル、新旧東西問わず、その日聴いた曲についての感想文です。

2012年1月29日(日)

#201 マジック・スリム&ザ・ティアドロップス「Before You Accuse Me」(Rough Dried Woman/Wolf)

ベテラン・ブルースマン、マジック・スリム2009年のアルバムより。エラス・マクダニエル、すなわちボ・ディドリーの作品。

以前にマジック・スリムを取り上げたのは2008年4月のことだから、もう4年近くたつのだが、その間にも彼はコンスタントにアルバムをリリースし続け、最新作は2010年の「Raising the Bar」。とても現在74才とは思えぬ精力的な活動ぶりであるね。

そう、マジック・スリムの魅力はまずそのタフネス、パワフルさにある。ボーカルにせよ、ギターにせよ、常に真正面からの押し相撲でグイグイと攻めるタイプ。

ちょっとラフで大味なところさえも、その武器としているのだから、もう最強のブルースマンなんである。

マジック・スリムといえばそのステージネームゆえにどうしてもマジック・サムと混同されやすいが、もともとこの名前、先輩格であったマジック・サムが彼につけてやったものだという。パチモンではなく、いわば本家のお墨付きなのだ。

尊敬する兄貴分、マジック・サムからもらったそのステージ・ネームを、今も変わらず名乗り続けるマジック・スリムには、なんかオトコの義侠心みたいなものを感じちゃうね。

「ブルース渡世人」のおもむきのあるマジック・スリム兄さんの心意気は、きょうの一曲にも、しっかりうかがうことが出来る。

「Before You Accuse Me」はクラプトンやCCRであまりにも有名だが、もともとはボ・ディドリーがオリジナル。ブルースというよりはロックンロールなノリの佳曲だが、マジック・スリムが弾き歌えば、またひと味違って聴こえる。

エルモア・ジェイムズ風、いわゆるブルーム調のイントロで始まるアップテンポのシャッフル。ティアドロップスによるコーラスも交えた力強い歌声が、いかにもマジック・スリムらしい。

愛器ジャガーによるソリッドで高らかなソロも、昔からまったく変わることのないスタイル。時代なんて関係ねえ、2000年代になろうが、俺は俺。常に王道を行くぜ!みたいな感じだ。

歌の中身はどちらかといえばダメオトコ系の話なんだが、マジック・スリムが歌えばみょうに威勢よく、元気が出る歌になってしまうのが可笑しい。

マジック・スリムことモーリス・ホルトの「俺節」、72才のタフな歌声を聴けば、「やるなジジイ、俺たちも負けてられねえぜ」と思うはず。ぜひ聴いてくれ。

2012年2月5日(日)

#202 アーロン・ネヴィル&リンダ・ロンシュタット「Don't Know Much」(Cry Like a Rainstorm - Howl Like the Wind/Rhino/Elektra)

ネヴィル・ブラザーズの看板ボーカル、アーロン・ネヴィルとベテラン女性シンガー、リンダ・ロンシュタットのデュエット・ナンバー。バリー・マン=トム・スノウ=シンシア・ワイルの作品。

アーロン・ネヴィルとリンダ・ロンシュタット、このふたりは因縁浅からぬ仲だ(別に男女関係って意味じゃないよ)。きっかけはロンシュタットの89年のアルバム「Cry Like a Rainstorm - Howl Like the Wind」にネヴィルがゲスト参加し、きょうの一曲とあと「All My Life」の二曲をデュエットしたことだ。

この二曲がなんと、グラミー賞のベスト・デュオ賞を取ってしまったんである。

これが発端となって、ネヴィルのA&M移籍第一弾アルバム「Warm Your Heart」は、ロンシュタットがプロデュースしている。ロンシュタットの好サポートのおかげで、それまで格別のヒットがなかったアーロン・ネヴィルのソロ活動は軌道に乗ったといえる。

アーロン・ネヴィルといえばなんといっても「天使の歌声」とも称される、その清らかなファルセット・ボイスがウリだ。そのいかつい顔や体つきとはあまりに好対照な、ピュアな歌声に癒される人も多い。

前置きはこのぐらいにして、まずは曲を聴いてみよう。ピアノの静かなイントロに導かれてソフトなネヴィルの歌声が始まり、それに線のはっきりしたロンシュタットの高い声が絡んでいく。そのハーモニーは澄みわたった空のようだ。

曲を提供したのは、バリー・マン、シンシア・ワイル夫妻とトム・スノウ。マン夫妻は60年代以降、数々の大ヒット(「ふられた気持ち」「オン・ブロードウェイ」など)を生み出したタッグで、87年には夫婦揃ってソングライターの殿堂入りも果たしている。

そんな強力なチームから生まれた曲だから、悪いわけがない。佳曲に、最高の歌い手ふたり。グラミー受賞もむべなるかな、である。

ラブバラード・ナンバーの最高峰、ぜひチェックしてみてくれ。

2012年2月12日(日)

#203 ジョニー・ギター・ワトスン「One Room Country Shack」(The Original Gangster of Love: 1953-1959/Jasmine Rocords)

ジョニー・ギター・ワトスンの50年代の録音より。マーシー・ディ・ウォルトンの作品。

ジョニー・ギター・ワトスンといえば、筆者オキニのアーティストのひとりで、「一日一枚」あたりでも何度か取り上げたことがある。ヤクザっぽくて、粋でいなせで、とにかくイカしているの一言なのだが、この50年代の曲も実にカッコいい。

オリジナルは、テキサス州出身のシンガー/ピアニスト、マーシー・ディ・ウォルトン。もともとはブギウギ/バレルハウスのスタイルだったが、これをモーズ・アリスン、ジミー・ロジャーズ、バディ・ガイ、オーティス・スパン、ジョン・リー・フッカー、ローウェル・フルスン、アル・クーパー&シュギー・オーティスといったさまざまなアーティストがカバーしたことで、ブルース・スタンダードとなった。

ジョニー・ギター・ワトスンは50年代半ば「ゾーズ・ロンリー・ロンリー・ナイツ」「ギャングスター・オブ・ラブ」のヒットで一躍スターとなったが、きょうの一曲もその時代のもの。まだはたちそこそこの、若さに溢れた歌声が聴ける。

歌の内容としては、ブルースのおおかたにもれず、独り身のやるせなさを歌ったものだが、ワトスンのあくの強い声で歌われると、ありふれた哀感とはまた違った、彼一流の「大見得」のようなものを感じる。

女にふられようが、俺は俺、負けねーぜ、みたいな。

時代を感じさせるペナペナなギター、ドタドタのドラムなれど、これがえらくカコイイ。

70年代以降のファンクなジョニーGもヒップなのだが、こちらも負けじとヒップなのだ。

要するに、カッコいい人は、いつの時代でもカッコいいのだ。これ永遠不滅の真理ね、ということで。

2012年2月19日(日)

#204 ビリー・ボーイ・アーノルド「Shake The Boogie」(Back Where I Belong/Alligator Records)

おもに50〜60年代に活躍したブルースマン、ビリー・ボーイ・アーノルド、93年のアルバムより。サニー・ボーイ・ウィリアムスン1世の作品。

アーノルドは35年、シカゴの生まれ。土地柄もあり幼少のころからブルースを聴いて育ち、近くに住んでいたサニー・ボーイ・ウィリアムスン1世の薫陶を受けて、自らもシンガー/ハーピストとなった。まさに生粋のシカゴ・ブルースマンなのだ。

52年、17才で初レコーディング。その後、ボ・ディドリーと活動を共にすることで、彼の名前は広く知られるようになる。60年代には、ヤードバーズが彼の「I Wish You Would」「I Ain't Got You」をカバーしたことで、ロックファンにも注目されるようになった。

70年代以降は表舞台から次第に遠ざかるようになり、一時はバス運転手をして暮らしていたが、90年代には本格復帰。この「Back Where I Belong」というアリゲーターでのファースト・アルバムで健在ぶりを披露し、76才の現在に至るまで活動を続けているのだ。

アーノルドの歌はブルースとはいえ、どちらかといえばライトで、むしろR&Bっぽい流行歌感覚がある。ディープな「どブルース」は歌えないが、そのヘニョッとした軽妙さこそ、彼の持ち味といえそうだ。

93年の復帰盤でも、その味は昔と全然変わっておらず、なんとなくホッとする。

きょうの一曲は、彼が幼くして直弟子となった師匠、ウィリアムスンの代表曲。

後代のロックンロールにも通ずるものがある、ライトな味のブギ・ナンバーだ。

歌にせよ、ハープにせよ、力みのない自然体で、そこがアーノルド流。特にハープは、ソロフレーズよりもむしろリズム、ビートを強調するスタイルで、「ハープ=リズム楽器」という筆者の自説を見事に裏打ちしてくれている。

90年代録音とはいえ、その演奏スタイルは、ギターなどのバックも含めて、あきらかに50年代のもの。だが、それがイイ!

アルバム・タイトル通り「原点回帰」な一枚。いまどきの音楽に媚びず、俺流を貫き通していて、実にカコイイ。

ビリー・ボーイの男伊達を証明する佳曲。ぜひチェックしてみてくれ。

2012年2月26日(日)

#205 ジョニー・テイラー「Something Is Going Wrong」(Lover Boy/Malaco)

ジョニー・テイラー、86年のアルバムより。ロバート・A・ジョンスン、サム・モズレーの作品。

ジョニー・テイラーは2000年に62才で亡くなっているが、彼のシンガーとしてのキャリアの後半は、マラコ・レーベルとともにあった。この「Lover Boy」は同レーベルにての2枚目にあたる。

説明するよりとにかく、まずは曲を聴いてほしい。この歌の、圧倒的なパワーは、筆舌に尽くし難いというしかない。

ジョニー・テイラーというひとは、サム・クックに多大な影響を受けたソウル・シンガーであると同時に、ブルース・シンガーとしても見事な業績を残している。ただ、日本ではかなり過小評価されていて、めったに話題にも上らない。

それもこれも、わが国では、ギターなどの楽器をもたないスタンダップ系ブルース・シンガーを、軽視する傾向が強いからだ。まことに嘆かわしいのう。

たとえばこの「Something Is Going Wrong」にしてみたところで、ブルース・ファンはバックでギターソロを弾いているのは誰?みたいなことにばかり興味が向いていたりする。そんなの誰だってええやん!と思うんだがねえ。

たしかに、このギタリストはなかなかいいソロを弾いているのだが、あくまでも主役はジョニー・テイラー。彼自身が弾いているのではない以上、ギタリストはあくまでもワキ役だ。

いやいや、さらに言ってしまえば、シンガー兼ギタリストであったとしても、ブルースが「歌もの」の音楽である以上、いかにギターが上手くても歌自体がよくなきゃ、全然アウトなのだ。

そのへん、わかっていない日本人が多過ぎるのだ、プンプン。

ギターは激ウマ、でも歌はアマチュア・レベル、みたいなブルースマンをファンが容認している限り、ブルースはしょせんアマチュア音楽だね、とナメられてしまうのだよ。

さて、ボヤキはこのへんにして、この曲についてもうちょっと語らせていただこう。

歌詞、節回し、歌い口、そしてバックのサウンドに至るまで、ここまで「どブルース」な曲は、なかなかおめにかかれるものではない。

もう150キロ超のど直球!みたいな、あきれるほどのピュア・ブルース。

ジョニー・テイラーはとても器用なシンガーで、コンテンポラリーなR&B/ソウルも難なく歌いこなしており、マラコ時代にもその手の「Good Love」という大ヒットを出しているが、その一方で、何のてらいもなくこういう曲を熱唱するひとでもあった。

その歌のスケールの大きさにおいて、彼をしのぐブルース・シンガーはいまだに出てきていないような気がする。この一曲を聴いただけでも、それは明白なんじゃないかな。ブルース・ファンなら、必聴でっせ。

2012年3月4日(日)

#206 ビッグ・ビル・ブルーンジー「Evil Woman Blues」(Evil Woman Blues/Fuel 2000)

早いものでもう3月だ。今月の一曲目はこれ。ビッグ・ビル・ブルーンジーが歌うトラディショナル・ナンバー。

ビッグ・ビルといえば、シカゴ・ブルースの顔役的存在。30〜40年代を中心に、膨大なレコーディングを残している。

われわれがよく耳にしているビッグ・ビルの音源は、アコースティック・ギターの弾き語りスタイルのものが多いが、それだけでなく、バックにピアノとベース、あるいはさらにドラムも加えたバンド・スタイルでもレコーディングしている。

きょうの一曲は、それにさらにホーン・セクションも加えた、いわゆるビッグバンド・スタイルで録音されたもの。ちょっと珍しいかも。

イントロはトロンボーンのブローに始まり、ビッグ・ビルの歌に合わせて、ミュート・トランペットによるオブリガートが続く。中間部のソロは、軽妙なクラリネット。このへんに、ベニー・グッドマンを頂点とするスウィング・ジャズがトレンドだった「時代」を感じるね。

ふたたび、トランペットのオブリガート、そして三管によるリフで曲は終わりを告げる。

まさにスウィング・スタイルのブルースなのだが、ノリが実にいい。歌はもちろん、バックもよくスウィングしている。後半部のピアノの連打など、まことにノリノリである。

それにしても、ホーンとひとことで言っても、時代によって主役は変遷していることを感じる。

ホーンの王、トランペットは今でもなんとか王座にあるとはいえ、ナンバー2以下は明らかに入れ替わっている。

かつてトランペット並みの人気を博したクラリネットは、テナーをはじめとするサキソフォーンにその座を譲り渡してしまった。

50年代以降のジャズ、そしてその血縁関係にあるブルース、R&B、ソウルといったジャンルのバンドで、クラリネットを見かけることは、ごく稀になってしまった。

スウィング時代には花形だったトロンボーンも、後代には影が薄くなり、あくまでもアンサンブルの一員としてかろうじて命脈を保っているという感じだ。

ワンホーンをバンドに加える場合、トランペットよりむしろサックス、という傾向がロックの時代から強まっているし、「三管」といえばペット・クラ・トロンでなく、ペット・サックス・トロンを指すようになった。

時代によって、聴き手の楽器に対する好みが、次第に変化していっているという証拠だ。

でも、ただひとつ、永遠不変の真理があるのだな。

それは「いかなる楽器よりも雄弁なのは、人間の声という楽器である」ということ。

まこと、ボーカルというものは、バックのすべての楽器演奏を合わせても十分対抗出来るだけの強力な楽器なのだ。

聴き手の心に対して強大な説得力をもつ「歌詞」を表現できる楽器は、ヒトの声しかないからだ(まあそれも初音ミクをはじめとする「ボーカロイド」の登場によって、状況は変化しているけど)。

ということで、ビッグ・ビルの説得力あふれる歌声を聴いてほしい。見事に安定したリズム感、ワイルドにしてメローな、王者のボーカルをとくと楽しんでくれ。

2012年3月11日(日)

#207 EGOIST(エゴイスト)「Departures 〜あなたにおくるアイの歌〜」(Sony Music Records)

いわずもながのことだが、筆者は毎日、ブルースばかり聴いているわけではない。毎週のようによく観ているのは、音楽専門ケーブルテレビのベスト100番組だが、これを長時間流して聴いているうちに、思わぬ拾い物をした。

バラードの王道、みたいな曲調。ひと昔前ならMisia、最近ならJUJUあたりが十八番とするタイプの曲だが、歌っているのは、そのどちらでもない。

線はやや細いが、心にしっかりと響く、しなやかな歌声。一体、誰だろうと思って調べてみた。

インターネットの検索エンジンのおかげで、こういうときは一瞬でわかる。ありがたいことだ。

歌い手のEGOISTとはバーチャル・バンドの名前。曲は、昨年10月から放映中の深夜アニメ「ギルティクラウン」の、12月までのエンディング・テーマだった。作中に登場する架空のバンドというわけだ。

アニメ中の歌姫キャラ、楪いのり(ゆずりは〜)は、売り出し中の新人声優、茅野愛衣が声をあてているが、歌のほうは新人のchelly。そしてサウンドは、あのsupercellのryoがプロデュースしているという。

以前、当コーナーで「君の知らない物語」を取り上げて、supercellに注目したが(2010年1月10日)、その後、その活動ぶりには本当に目覚ましいものがある。

ryoは「化物語」に続くアニメ「偽物語」でもEDテーマを担当しているほか、中川翔子にも曲を提供したり、アニメ「ブラック★ロックシューター」の音楽を制作するなど、マスメディアには顔を出さないものの、もはやメジャー・アーティストといってよい。

そんな彼の作曲家/アレンジャーとしての確かな実力が伺えるのが、この「Departures 〜あなたにおくるアイの歌〜」だと思う。

2000人のオーディションから選ばれた2人のうちのひとり、17才のchellyの、甘くもせつない歌声。ピアノトリオとストリングスをベースにした、オーソドックスなオーケストレーション。

繊細なファルセットを交えてささやくような、ローレライにも似た柔らかな声に、多くの男性は心を奪われるにちがいない。

4分ちょっとの耳の至福。なんとも淡く、はかない時間なのだが、ずっと心に残り続けるのだ。聴いているうちに、思わず落涙してしまうかも。

こんなに美しいラブソングを、歌詞もメロディも、そしてアレンジも含めて、すべてひとりでプロデュースするryoというひとは、21世紀のコール・ポーターといえるかもしれない。

オリコンチャートにトップテン入りしたのも納得な、佳曲。ぜひヘッドホンで、その甘美なサウンドを満喫してほしい。

この曲を聴く

2012年3月18日(日)

#208 ブラインド・フェイス「Sleeping In The Ground」(Blind Faith [2000 Deluxe Edition]/Polydor)

ブラインド・フェイスの唯一のオリジナル・アルバム「Blind Faith」の2000年版より。サム・マイヤーズの作品。

ブラインド・フェイスほど過剰な期待を集め、かつはげしい落胆の対象となったバンドは、他にいるまい。

この69年のデビュー盤は、セールス的には成功したとはいえ、クリームの再生復活を待ち望んだファンの予想を、見事なまでにうっちゃったサウンドだった。

「看板スター」であったエリック・クラプトンのギター・プレイはひどくジミなもので、クラプトンに比べると人気的には劣っていたスティーブ・ウィンウッドの歌を前面に押し出した内容だったからだ。

しかしですね、今聴けばこのアルバム、さほど悪くないんだよねぇ。

ブリティッシュ・ハード・ロックを期待してきくから、肩すかしをくらうだけで、そういう思い入れ抜きにきけば、そんなにガッカリするような内容じゃない。

きょう取り上げるのは、未発表テイクも含めた2枚組となった2000年版だが、オリジナル盤の6曲と合わせて聴けば、「そうか、そういうことがやりたかったのね」と得心がいく内容なんである。

CD化したときにボーナス・トラックで入っていた、出来のイマイチな2曲をちゃんと外してあるのは○。

かわりにこの「Sleeping In The Ground」が、アップテンポのテイクと、スローのテイクの2種入っているほか、おなじみの「Can't Find My Way Home」のエレクトリック・バージョン、インスト・ナンバー、スタジオでのジャム・セッションの記録などが加わっている。

これらを聴いて思うに、ブラインド・フェイスってのは、基本的にジャム・バンドであり、かっちりしたアレンジで勝負しようとしたバンドではないということだ。

ハード・ロックは「アレンジ」の音楽であり、きっちり決まったリフの上に構築される音楽だが、それとは違うものを、最初から目指していたってことだ。

4人のテクニックのあるミュージシャンが、スタジオ内で自由に演奏してみた結果、納得のいくレベルのものが出来てきたときは、それをそのバンドの「作品」とする。そんな方法論だったのだろう。

そこには、「ヒット曲を出してやろう」みたいな意図は希薄である。たしかにメンバーには、過去いくつものヒットをものした者もいたが、それはあくまでも「結果」であって、狙ったところではなかった。彼らが歌いたい曲、演奏したいサウンドを世に出したところ、たまたまリスナーの嗜好と一致した。そういうことなのだ。

ゆえにブラインド・フェイスは、レコード業界のヒット曲量産システムとは、もっとも対極のところに存在するバンドだったのである。

そういうことを考えつつ、このブルース・ナンバー「Sleeping In The Ground」を聴けば、いろいろと腑に落ちるのではないかな。

この曲の作者、サム(サミーとも)・マイヤーズは36年ミシシッピ州ローレル生まれの、黒人シンガー/ハーピスト。キング・モーズのもとでプロのハープ奏者となり、57年この曲で歌手として初録音、エルモア・ジェイムズのバックなどを経て、80年代には白人ブルース・ギタリスト、アンスン・ファンダーバーグのバンドにシンガーとして迎えられるなど、息の長い活動を続けている。

マイヤーズ自身の歌声は高からず低からずで、どこかほのぼのとした味わいがあるが、ブラインド・フェイス版ではウィンウッドが得意の高音域をめいっぱい駆使してシャウトしているので、かなり趣きは違う。でも、どちらにしても、流行り歌的なものとはだいぶん異なるのだ。

アメリカ南部の鄙びた匂い、それがこの曲のよさだ。のちにレイドバックとかいわれるような音楽の原点は、ここにあったといっていい。

クラプトン、ウィンウッド、グレッチ、ベイカー、いずれのメンバーも、永遠不滅なブルース・スタイルを愚直なまでに守って、演奏しているのがうれしい。

個性的で刺激的な音楽ばかりが、いい音楽じゃない。オーソドックスなものにこそ、深い味わいがあるということを、彼らのプレイからぜひ聴きとってほしい。

2012年3月24日(土)

#209 エリック・クラプトン「Last Night」(No Reason to Cry/PolyGram)

エリック・クラプトン、76年のソロ4作目(ライブ盤をのぞく)より。リトル・ウォルターのカバー。

74年、長いブランクののち「461Ocean Boulevard」で復活したECが、以降年に1作のペースでコツコツとアルバムを出していたころの作品である。

「No Reason to Cry」は「Hello Old Friend」というポップなヒットを軸にしながらも、ディープなブルースをも取り上げるという、二面性のあるアルバムだ。

後者を代表するのが、オーティス・ラッシュの「Double Trouble」と、この「Last Night」。

ECはこれをちゃっかり自分の曲としてクレジットしているのだが、もちろん直接的にはリトル・ウォルターをカバーしている。もともとはトラディショナルなブルースのようだが。

まずは聴いてみよう。なんか結構、ラフというか、酔っぱらったかのようなヨレヨレの演奏に聴こえるはずだ。ミストーンとかフツーにあるし。

なんじゃあこりゃ〜と思ってしらべてみたら、案の定、ちゃんとしたレコーディングではなく、クラプトン自身の誕生パーティーでの余興というか、ジャムセッションを収めたものだった。どうりで、歌も演奏も怪しげなわけだ(笑)。

事実、この曲はアナログ盤では未収録で、CD化されたときに初めて追加された「おまけ」みたいなものなのだ。やれやれ。

しかし、酒が入っているにせよ、演奏はさすがにプロのそれで、一定以上の水準にはあると思うけどね。

ブルースというもの自体、本来「しらふ」で歌うようなものじゃないので、これはこれで正しいあり方なのかもしれん。

演奏においては、クラプトンのギターはまあまあって感じだが、わりといいのが、ゲスト参加したザ・バンドの面々。とりわけ、リチャード・マニュエルのピアノ演奏は、さすがの出来だなと思う。

そのシンプルさゆえに、逆に心にダイレクトに突き刺さってくるその歌詞。失恋、そして悔恨。まさにブルースだ。

ブルースを愛好する者なら、一度は歌い、演奏してみたいナンバーといえよう。

筆者ももちろん、今後のレパートリーにと考えている。乞うご期待(笑)。

2012年3月31日(土)

#210 フォガット「Honey Hush」(Energized/Bearsville Records)

英国出身のハードロック・バンド、フォガット、3枚目のアルバムより。ビッグ・ジョー・ターナーの作品。

フォガットといえばブギ、ブギといえばフォガットというくらい、シンプルでストレートなブギ・サウンドが売りのバンド。

とにかくわかりやすく、ひたすらノリがいいフォガットの、代表曲といえるナンバーだ。当然、ライブでも定番中の定番。以前、2004年5月23日の「一日一枚」でも彼らのライブ盤(77年)を取り上げてみたが、その中でも演奏されていた曲。約8年ぶりに、スタジオ録音のほうも聴いてみた。

いやー、とにかくカッコいいの一言。イントロを聴けば、皆さんピンと来ると思うが、某先輩ロックバンドの某曲のアレンジをまんま拝借しとります。

そう、ヤードバーズの「Train Kept A Rollin'」だ。フォガットは、そのご本家の演奏よりも、さらにタイトでヘビーなパフォーマンスで、黒人シンガー、ビッグ・ジョー・ターナーの古いブルースを見事に甦らせているのだ。

「古い皮袋に新しい酒を盛る」というのは、まさにこのようなことを指すのだろうね。

リード・シンガー、ロンサム・デイヴの熱いシャウト、デイヴとロッド・プライス、二人のギタリストの息の合ったプレイ、そしてバックを固めるトニー・スティーブンス(b)、ロジャー・アール(ds)のリズム隊。最少にして最強のパワー・ユニットの演奏は、世のすべての2ギター・バンドのお手本といえるだろう。

16ビートでこれほどの躍動感を出せるハードロック・バンドは、フォガットをおいて他にない。

ボーカルとギターの粘っこい掛け合いのうちに、曲はフェード・アウトしていくが、彼らだったらこのフル・パワー状態を何十分、いや何時間でも持続出来るような気がする。

ハードロック界随一のタフネス・バンド、フォガットの一撃に、ノックアウトされてみて。

2012年4月7日(土)

#211 リトル・リバー・バンド「Reminiscing」(Sleeper Catcher/One Way Records)

オーストラリアのロック・バンド、リトル・リバー・バンド、1978年の大ヒット曲。メンバーの一人、グレアム・ゴーブルの作品。

リトル・リバー・バンドは75年にメルボルンにて結成後すぐにアメリカに進出、キャピトルよりデビューアルバムを発表し、「It's a Long Way There」のヒットで一躍注目されるようになる。ドゥービーズやイーグルスを彷彿とさせるウェスト・コースト系の音で人気を博し、きょうの一曲「 Reminiscing(邦題:追憶の甘い日々)」は、ビルボード3位という、彼ら最大のヒットとなった。なんと、ラジオで400万回以上オンエアされ、14週連続チャート・インしたというから、ハンパではない。

その後も現在に至るまでアルバムを出し続けているが、彼らの全盛期はやはり、70年代後半〜80年代前半といえるだろう。当時、トップ30に12曲ものヒットを送りこんでいたのだから、今でこそ覚えているリスナーは少ないものの、実にスゴいバンドだったのだ。

彼らが出てくるまでは、オーストラリア出身のバンドで、アメリカで成功した例はなかった(広義ではビージーズが最初の例かもしれないが、ギブ兄弟はもともと英王室属領マン島の出身だからね)。だから、本当の意味でパイオニアだった。彼らの成功によって、後続のメン・アット・ワークなどの豪州出身バンドが世界進出する道がひらけたともいえるだろう。

78年といえば、いまや死語となった「AOR」が全盛だったころ。大人の鑑賞にも耐えうる高い音楽性を持ったリトル・リバー・バンドは、まさにAORの代表選手的な存在として、出す曲出す曲をヒットさせていったのだ。

きょうの一曲は、その中でも名曲中の名曲といえるな。甘美なメロディ、キーボードとトランペットを主軸にしたジャズィで粋なバック・サウンド、そして歌とコーラスのうまさは特筆ものだろう。グレン・ミラーやコール・ポーターなどにインスパイアされた音と詞は、古き良きアメリカを感じさせる。ジャズへの深い造詣なくしては生み出しえなかった楽曲であり、彼らがいかにアメリカ人以上にアメリカ的であるかがよくわかる。

彼らは、ロック・バンドとしてはいわゆるケレンがまったくといっていいくらい見られない、音楽の質そのもので勝負するタイプのバンドだった。メンバーを見ても、みな実直な感じの人たちばかりで、それゆえにミーハーな人気はなかったのだが、本国ではいまだに絶大な人気があるという。

ミュージシャンは、派手なメイク、奇矯なパフォーマンスではなく、自らが生み出した曲、そして歌や演奏そのもので勝負すべきだという哲学が、彼らの音楽活動から強く感じとれるのだ。

本当の実力をもったミュージシャンとは、こういう曲を生み出せる人々のことをいうのだ。今聴いても、めちゃめちゃイケてまっせ。

この曲を聴く

2012年4月15日(日)

#212 リトル・アル・トーマス「Somebody Changed The Lock On My Door」(South Side Story/Audio Quest Records)

シカゴの黒人ブルース・シンガー、リトル・アル・トーマスの初スタジオ・アルバム(2004)より。サニー・テリーの作品。

トーマスは1930年生まれだから、今年82才。

若いころから、シカゴのサウス・サイド、マックスウェル・ストリートでブルースを歌い続けてきたが、デビューの機会に恵まれず、2000年にスイスで録音したライブ盤「In The House」を出すまでは無名であったという、知る人ぞ知るベテラン・シンガーなのだ。

70過ぎてメジャーデビューの「新人」。オトナの音楽、ブルースならではの話であるな。

彼の場合、ギターなど楽器をまったく弾かない、いわゆるスタンダップ・ブルースマンなので、注目されにくい、非常に不利なポジションにいたといえる。

が、そんな状況をはねかえすように、アルバムデビューしてからのトーマスは、高齢にもかかわらず、より活発な音楽活動をおこなうようになっている。2010年にはセカンド・アルバム「Not My Warden」もリリースして、健在ぶりを示している。

youtubeでも、彼のライブ演奏を観ることが出来るので、ぜひチェックしてみてほしい。現在のバック・バンド、白人4人編成のThe Deep Down Foolsを従えての歌が、実にディープでカッコいい。

BUDDY GUY'S LEGENDSにおけるライブ演奏 "Sweet Little Sixteen"

見てのとおり、すっかり前歯も抜けたジイサンなれど、その歌声は力強く、粘っこく、説得力に満ちている。ハットとスーツでビシッとキメた姿、シビれるぜ。

さて、きょうの一曲は、先行のライブ盤でも演奏していたナンバー。サニー・テリー&ブラウニー・マギーのレパートリーなのだが、素朴な味わいの原曲とは全然雰囲気がちがう。ひたすらファンキーでノリのいい曲に変身しているのだ。まさにアレンジの妙。

彼はいつもこの曲をステージのハイライトに配していたという。いわばキメの一曲だ。観客が盛り上がった様子が、十分想像できるね。

ジェイムズ・コットンぽい、ちょいとラフだけど迫力満点なボーカル。このグッとくる感じこそが、ブルースだ。バックもギターをはじめ、ゴキゲンなプレイヤーぞろいで、演奏のレベルも高い。

2000年までの、ン十年の助走期間は伊達じゃない。真打ちは一番最後に登場するのだ。

82才の新鋭、リトル・アル・トーマス。死ぬまで歌い続けていくなんて、筆者の理想そのものだ。憧れるなぁ〜。

この曲を聴く

2012年4月22日(日)

#213 ザ・ステイプル・シンガーズ「Solon Bushi(ソーラン・ロック)」(The Ultimate Staple Singers:A Family Afair/Kent/Ace)

きょうは、珍盤中の珍盤を紹介しよう、黒人ソウル・グループ、ザ・ステイプル・シンガーズが歌い演奏した北海道民謡「ソーラン節」だ。70年録音。

ザ・ステイプル・シンガーズ(後にはザ・ステイプルズとも)は50年代より2000年まで活動していた、ジャクスンズ、アイズリー・ブラザーズなどと並ぶ、黒人ファミリー・グループの代表格。父親のローバック”ポップス”ステイプルズを中心に、彼の息子、娘たちが参加した4人編成だ。

この曲の録音当時のメンバーは、ポップス、息子のパーヴィス、娘のクレオサ、メイヴィス(現在もソロ・シンガーとして活躍中)の4人。男2女2の混声コーラスだった。

「Solon Bushi」は日本では、日本グラモフォンよりシングル「ソーラン・ロック」としてもリリースされている。この曲の録音にいたる当時の事情はよくわからないが、60〜70年代には来日公演を行う海外アーティストが、日本の曲をカバーしたり(アダモなど)、自分のオリジナル曲を日本語の歌詞で歌う(シカゴ、クイーンなど)ような例がしばしば見られたので、このステイプルズの場合も、おそらくそういったプロモーションを兼ねておこなわれたのだろうね。

とまれ、聴いてみよう。なんとも見事なアレンジに仰天すること間違いなしだ。

いかにも日本的な「エンヤトット」リズムだった民謡が、軽快なR&Bに仕上がっているではないか。

原曲を譜面通りにやるとバックビートに乗らない部分はうまくフェイクして、原曲以上にスピード感とリズムを強調している。

日本民謡ではまず聴くことのない、華やかな混声コーラス・アレンジもまた新鮮だ。

あまたある日本の曲の中でなにゆえこの曲が選ばれたのか。それもまた想像してみるほかないが、やはりその陽気な旋律とノリ、ユーモラスな合いの手などが、彼ら好みのグルーヴをもっており、カバーへの意欲をかきたてるものがあったのだろう。日本の民謡(トラディショナル)もまた、アメリカのブルース同様、現在のポピュラーな音楽の源流だってことだ。

バッファロー・スプリングフィールドの「For What It's Worth」、ボブ・ディランの「A Hard Rain's A-Gonna Fall」、など、ステイプルズにはジャンルを問わない名カバー曲が多いが、この1分半ほどの小曲も、それに加えていいんじゃないかな。

親子ならではの一体感あふれるコーラスと、抜群のリズム・アレンジ。一流のミュージシャンは、素材を選ばずどんな曲でもパーフェクトに料理(カバー)してしまう。

国や人種を越えた世界共通のグルーヴを、そこに感じとってくれ。

2012年4月29日(日)

#214 ゼム「Baby Please Don't Go」(World of Them/Decca)

アイルランド出身のロック・バンド、ゼムのベスト盤(69年)より。ビッグ・ジョー・ウィリアムズの作品。

ゼムは北アイルランドの首都、ベルファストにて63年結成された(当初は5人組)。翌64年ロンドンに進出してこの「Baby Please Don't Go」でシングルデビューしたが、そのB面である「Gloria」がヒットしたことで一躍注目される。

翌年、デビューアルバム「Them」をリリースしたが、この「Baby Please Don't Go」は収録されず、69年のベスト盤でようやく日の目を見たというわけである。

リード・ボーカルのヴァン・モリスンはセカンド・アルバム「Them Again」(66年)まではバンドに参加したが、その後脱退、ひとりシンガー/ソングライターの道を歩むことになる。

66才の現在もなお、第一線で活躍し続けるモリスン。その原点はこのゼムというバンドにあるわけだが、今聴いてみても、パンキッシュでとんがった感じのサウンドが実にカッコいい。

ビッグ・ジョー・ウィリアムズの鄙びたブルースも、アップテンポのビート、オルガンの味付けでいかにも60年代風なサウンドに変貌している。

とりわけ、モリスンの攻撃的でエッジの立った歌声は、一度聴くと耳から離れない。

ストーンズ、ヤードバーズ、あるいはアニマルズといった少し先輩格のビート・バンドを意識しつつも、よりブラック・ミュージックに近い(ジョン・リー・フッカーあたりにも通じるものがある)エグ味とコクのあるサウンドを聴かせてくれるのだ。

この曲の録音当時、モリスンはまだ10代だったっていうのだから驚く。シブすぎるよ、ヴァンさん!(笑) 映画「コミットメンツ」のシンガー、デコもそうだったけど、アイルランドは、音楽的に早熟な人が多いのかね?

バックの演奏といい、歌といい、ご機嫌なことこのうえなし。個人的には、ちょっと単調な「Gloria」よりずっといいと思うのだよ。

見た目はジミだが、音はストーンズ以上にヒップだったゼム。その才能は本物だ。聴くべし。

この曲を聴く

2012年5月6日(日)

#215 ニール・セダカ「Bad Blood」(The Hungry Years/Varese Sarabande)

ニール・セダカ、1975年の全米ナンバーワン・ヒット。セダカ、フィル・コーディ、ジェリー・リーバー、マイク・ストーラーの共作。セダカとグレアム・グールドマンによるプロデュース。

ニール・セダカといえば説明するまでもなく、50年代後半から60年代前半にかけて、数々のヒットを出し、ポール・アンカとともにトップ・アイドル的な存在だったシンガー。

しかし彼にも不遇な10年間があった。ヒットも出ず、ドサ回り、後輩人気シンガーの前座をやらざるをえない、しんどい日々が。きょうの一曲が収められたアルバム・タイトルが、まさにそれ。

彼の没落には、それなりの理由があった。ビートルズの人気だ。

若くイケメン揃いの英国軍団の侵攻に、大国アメリカもあえなく陥落してしまったのだ。

トップ・シンガーの座を明け渡し落ち目の三度笠、このままではなるまいぞと思っていた10年目、セダカにようやく起死回生のヒットが出た。

74年、当時人気絶頂の英国人シンガー、エルトン・ジョンのロケット・レコードに移籍、出したシングル「Laughter in the Rain(邦題:雨に微笑みを)」が大ヒット、全米ナンバーワンに昇りつめたのだ。

以後、60年代のヒット「悲しき慕情(Breaking Up Is Hard to Do)」のバラード・アレンジによる再録音、そしてこの「バッド・ブラッド」の3連続ナンバーワンヒット達成という、見事なハット・トリックをキメたのだった。

さらにおまけとして、新人デュオ、キャプテン&テニールにも曲を提供、「愛ある限り」「ロンリー・ナイト」が大ヒットした。

「ニール・セダカ、王者として完全復活!」であった。

復活の鍵は、やはり、彼が単なるシンガーでなく、佳い曲を書けるソングライターでもあったことに間違いない。

見た目はすっかりオジさんになってしまったが、その紡ぎ出すメロディは、いまだに多くのリスナーを魅了するものがあった。

デビュー時より、自作自演のスタイルを貫いてきたセダカならではの、快心の逆転打、それがこれらのヒット群なのだ。

さて、きょうの一曲はセダカにしては珍しい、メロディよりもビートに重点をおいたナンバー。

この曲を聴いた当時、17〜18才の筆者はこのビートをなんとよぶのか、知らなかった。でも、とてもノリのいいリズムなので、いたく気に入ったものだ。

その数年後、筆者はそれを「セカンドライン」とよぶのだということを、リトル・フィートの存在とともに知ることになる。

バックで、セダカに負けじと目立っているボーカルは、エルトン・ジョン。ドラムはエルトン・バンドのナイジェル・オルスン。そしてプロデューサーは10CCのグレアム・グールドマン。いずれも英国人だ。一方、ソングライティングに参加しているのは、超がつくヒットメーカーのリーバー&ストーラー。

英米トップ・ミュージシャンによるネオ・ニューオーリンズ・サウンド、それがこの「バッド・ブラッド」なのだ。

クラビネットのイントロにはじまる、ファンキーなことこのうえないサウンドに、身も心も委ねてほしい。

セダカの声の明るさ、軽さに、永遠の青春を感じる一曲であります。

この曲を聴く

2012年5月13日(日)

#216 ジョニー・リヴァース「Secret Agent Man」(Secret Agent Man: The Ultimate Johnny Rivers Anthology/Shout!)

白人シンガー、ジョニー・リヴァース、66年のヒット曲。スティーブ・バリ=P・F・スローンの作品。

ジョニー・リヴァースは1942年、ニューヨーク生まれの69才。

60年代にめざましい活躍をし、ポップス史にその名を残している彼も、プロとしての最初の成功は、ソングライターとしてのそれだった。61年、当時人気の白人シンガー、リック(リッキー)・ネルスンに楽曲を提供して注目されたのだ。その後、シンガーとしても頭角をあらわし、大型ライブハウスの先駆け、ハリウッドの「ウィスキー・ア・ゴーゴー」の看板シンガーとしてデビュー、そのライブ盤よりシングルカットされたチャック・ベリーのカバー「メンフィス」は全米2位の大ヒットとなった。

日本でも60年代けっこう人気があったのを、当時小学生だった筆者もよく覚えている。

本格派ロックとはちょっと違うのだが、軽く明るくダンサブルな彼のロックンロールは、ゴーゴーダンスの世界的大流行とともに広まった。

先週も少しふれたことだが、ビートルズがアメリカを完全制覇する65年頃より少し前に、全米的なスターとなったのである。で、セダカやアンカらとは違い、彼の場合は、ロックンロール、R&B、カントリーをカバーする音楽的指向性がビートルズと近いことが幸いしてか、むしろ人気を伸ばしていった。

彼のボーカル&ギター、ベース、ドラムスというきわめてシンプルな編成ながら、ノリのよさは超一流。「トゥイスト&シャウト」と「ラ・バンバ」をメドレーで演奏するなど、ステージでは天性のエンタテイナーぶりを発揮して、見事に時流に乗ったのである。

70年代には人気もやや下降してしまったものの、その後もマイペースな音楽活動を続け、現在に至っている。

とにかく彼の魅力は、ライブだ。生のステージだ。スタジオ録音よりもライブ盤のほうが、ずっといい。

きょうの一曲、邦題「秘密諜報員」もライブから。ギリギリまで音を削ったシンプルなバック・サウンドゆえに、彼の独特の節回しがはっきりと浮かび上がってくる。ブラック・ミュージックに強く影響を受けながらもけっして同化しない、白人ならではのロックンロールを聴くことが出来る。

ロック史上ではさほど評価されてはいないリヴァース。でも、ビートルズがライブ盤を残すことができなかった時代に、ライブ盤でデビューヒットをキメた彼の先駆者としての功績は、もっと評価されていいんじゃないかな。

この曲を聴く

2012年5月20日(日)

#217 クロード・フランソワ「Comme d'habitude」(Best of Claude Francois/WEA)

フレンチ・ポップスのスター歌手、クロード・フランソワの代表曲。フランソワ、ジャン・ルナール、ジル・ティボーの作品。

クロード・フランソワは、日本では知名度がきわめて低いが、本国フランスでは60年代、ジョニー・アリディとならぶスーパースターだった。

「フランスのエルヴィス・プレスリー」ともよばれた肉体派ロッカーのアリディとは対照的に、ブロンド、小柄で華奢、お洒落な雰囲気をもっていたのがフランソワ。ショッキングピンクのジャケットを着こなせる男性歌手など、めったにいないだろ?

その彼の、人生最大のヒット作が、この「Comme d'habitude(いつものように)」だ。

まずは一聴願おう。誰もがすぐにこの曲の「正体」がわかるはず。

そう、フランク・シナトラをはじめとする有名歌手がこぞってレパートリーとした「マイ・ウェイ」、その曲なんである。

ポピュラー史上もっとも多くカバーされた曲ともいわれるが、代表的なところでは、シナトラ以下、英語詞を書いたポール・アンカ、プレスリー、布施明といったところがすぐに思い浮かぶ。変わりダネではセックス・ピストルズのシド・ヴィシャス、デフ・テックなんてのもある。

原曲は60年代後半に書かれたが、オリジナルの歌詞は「マイ・ウェイ」の、人生の節目に自分の来し方行く末を思い感慨にふけるといったドラマティックな内容ではなかった。どちらかといえば日常を題材とした小品。ただし、その内容はフランス的なエスプリを効かせてある。

彼の歌う映像を観れば、衣装、身振り等で、そのニュアンスはわかるのでないかな。

ただ、その歌詞内容のままにしておくにはもったいないくらいの、壮大な「ドラマ」を感じさせるメロディに、ポール・アンカが大いに触発され、新たな歌詞でまったく別の世界を作り上げた。

それくらいこの曲は、ほぼ完璧といっていいくらい、緻密に構成されている。とりわけ、サビの完成度において、おそらく、全ポップス曲のベスト5に入るといって、過言ではない。のちに小坂明子の「あなた」をはじめとする亜流を数限りなく生み出した「お手本」だった。

二十世紀を代表する二大歌手、シナトラとプレスリーがともにレパートリーとしていたのは、故なきことではないのだ。

すぐれたシンガーは、どの曲が多くの人の心を動かすことのできる「名曲」であるかを、本能的によく知っている。まさにそういうケースだと思う。

そしてそのフォローの対象となったフランソワもまた、すばらしい作曲家でありシンガーであった。

男性にしては少し高めで中性的な声が魅力のフランソワ。他のカバー・アーティストの誰とも異なる、繊細でしかも心をゆさぶる歌声を、とくと味わってほしい。

この曲を聴く

2012年5月27日(日)

#218 エルヴィス・プレスリー「My Boy」(Good Times/RCA)

エルヴィス・プレスリー、1974年のヒット・シングル曲。クロード・フランソワ、ジャン=ピエール・ブーテールの作品。

先週の当コーナーをお読みになったかたなら、すぐお気づきだろう。そう、この曲もフランソワの作品を、プレスリーがカバーしているのである。

歌詞の内容は、妻と離婚のやむなきにいたったひとりの男が、何も知らずにすやすやと眠っている、幼いわが息子への思いを切々と語ったもの。

この曲をリリースした当時、プレスリー自身も妻プリシラとの離婚に直面していたこともあってか、歌詞をプレスリー自身の体験談かと思っていたファンも少なからずいたようだが、もともと原曲自体がそういう内容で、英語詞もそれをほぼ忠実に訳したものなのだ。念のため。

とはいえ、家庭内の問題で悩んでいたプレスリーにとって、大いに共感すべきところがあり、それがこの曲をカバーする動機のひとつになったと十分想像できるね。

プレスリーという人はレコーディング曲数がきわだって多く、オリジナル同様カバー曲も膨大で、それもアメリカ国内に限らず、シャンソン、カンツォーネなどヨーロッパ系のポップスもよく取り上げており、クロード・フランソワもまた、プレスリーのフェイバリット・シンガーのひとりだった。

「マイ・ウェイ」に次ぐフランソワ・カバー第2弾であるこの曲は、プレスリーの朗々たる歌声にいかにもふさわしい、本格派バラード・ナンバー。

原曲のわが息子を気遣う父親の心情は、プレスリー自身の心情(彼の場合は息子でなく娘だったが)とシンクロして、聴く者の心をも強くゆり動かす。まさに一編のドラマだ。

筆者的には、いわゆる「落ち」がなく、エンドレスで続いていく曲構成が、いかにもシャンソン〜フレンチ・ポップスっぽいなぁと思う。

フランソワのドラマチックなメロディ・ライン、プレスリーの圧倒的な歌唱力があいまって生み出された至高の名曲。あまり知られてないけど、一度は聴いてみてほしい。

この曲を聴く

2012年6月3日(日)

#219 ズー・ニー・ヴー「ひとりの悲しみ」(ズー・ニー・ヴー ゴールデン☆ベスト/日本コロムビア)

日本のグループサウンズのひとつ、ズー・ニー・ヴーのシングル曲。70年リリース。阿久悠、筒美京平の作品。

ズー・ニー・ヴーはもともと「キャッスル&ゲイツ」という学生フォーク・グループにいた町田義人(ボーカル)と上地健一(ボーカル、パーカッション)がそこを68年に脱退して、新たに結成した6人組バンド。

同年、アルバム「ズー・ニー・ヴーの世界 R&Bベスト・ヒット」、シングル「水夫のなげき」でデビュー。翌年のセカンド・シングル「涙のオルガン」のB面「白いサンゴ礁」がスマッシュ・ヒットとなり、一躍名前を知られるようになる。

しかしその後は目立ったヒットが出せず、町田が70年に脱退した後も新たなボーカルを加えて活動するが、あえなく71年に解散となってしまう。その後町田はソロシンガーとなり、しばらく低迷を続けたが、78年の「戦士の休息」のヒットでようやく日の目を見ることになったのは、皆さんもご存じではないかな。

ズー・ニー・ヴーのバンドとしての特徴は、リードボーカルに絡む高音のハミングコーラス、ギターよりもむしろオルガンなどのキーボードをフィーチャーした、R&B系のサウンドにあったと筆者は思う。

で、きょうの一曲だが、オルガンによるイントロを聴けばどなたも、瞬時に「あぁ〜、あの曲かっ!!」と手を打つに違いない。

そう、71年春に大ヒット、ミリオンセラー目前までいった尾崎紀世彦のナンバー「また逢う日まで」そのものなのである。つまり、この「ひとりの悲しみ」がオリジナル。タイトルと歌詞の大半を変えて、「また逢う日まで」として生まれ変わったのだ。

オルガンをホーンにかえただけで、基本的にアレンジまで同じこの二曲、チャートではどうしてこうも明暗が生まれてしまったのだろうか。

町田の歌唱力は、尾崎のそれと比べてけっして遜色があるとはいえないと思う。ともにかなりの実力派だ。

となると、やはり、二曲の一番の相違点である、タイトルと歌詞の違いによるものという気がする。

二曲ともテーマは共通して「同棲していた恋人との別れ」であるにもかかわらず、「ひとりの悲しみ」という曲名がいかにもネガティブな印象を与えるのに対し、「また逢う日まで」は、いつかはわからないけれど、いつの日にか二人は再会するであろうことを前提にしていて、どこかポジティブさ、つまり「希望」を感じさせる。

起きた出来事はまったく一緒なのに、前者は「今生の別れ」のように見えるし、後者は「再び逢えばまた愛し合うかもしれない」可能性を十分残している。

このニュアンスの違いが、曲に対するイメージをほぼ180度変え、ヒットの有無にもつながったのではなかろうか。

そういえば以前、「Fly Me To The Moon」や「Blue Moon」を取り上げたとき、タイトルや歌詞を変えたことによって、最初はまったくヒットしなかった曲が信じられないほど売れた例を見てきた。

「ひとりの悲しみ」と「また逢う日まで」のケースもまた、そういうことだと思う。

タイトルや歌詞(ことに冒頭の一節)は、曲の「つかみ」としてホントに重要なんだなと思う。

そして、どんな曲も最初っから完璧なかたちで生まれてくるわけではない。改題・詞の改作等を経て初めてヒットに至るパターンも、意外とあるのだ。

もしズー・ニー・ヴーが「また逢う日まで」のかたちとなった曲をそのままもらって、世に問うて大ヒットになっていれば、彼らのバンドとしての生命は、もっと長かったかもしれない。

そして、もしそういうことになり、「また逢う日まで」を自分のレパートリーとしてもらうことがなかったならば、尾崎紀世彦は歌手としてまったく名を残せなかったかもしれない。

そういうふうに考えていくと、まことに感慨深いものがある。この一曲はまさに、人生の明暗をわけた一曲なんだという気がする。

最後に、先日肝臓がんで亡くなられた尾崎紀世彦さんの、ご冥福をお祈りいたします。日本人らしからぬダイナミックな歌声は、当時かけだしの歌い手であったワタシにとっても、大きな憧れの対象でした。合掌。

この曲を聴く

2012年6月9日(土)

#220 ザ・モップス「朝まで待てない」(サイケデリック・サウンド・イン・ジャパン/ビクターエンタテインメント)

後期グループサウンズ、そして日本の本格的ロック・バンドの先駆け、ザ・モップスのデビュー・シングル曲。67年リリース。阿久悠、村井邦彦の作品。

筆者の意識に「ザ・モップス」というバンド名が刻まれるようになったのは、71年の「御意見無用(ええじゃないか)」あたりからだが、彼らはそれより4年も前にプロデビューしていたのだ。

デビュー当初はギター2人の5人編成。彼らが所属するホリプロ社長・堀威夫氏のアイデアで「日本最初のサイケデリック・サウンド」を標榜し、当時他のグループサウンズのほとんどがミリタリー調などの制服をコスチュームにしていた中で、各人バラバラのヒッピー、フーテン風の衣装を着ていたのだから、先進的にもほどがあった。明らかに他のGSとは、一線を画した存在だったのだ。

サウンドも玄人好みのロックやR&B、ルックスも可愛いとかイケメンとかいうよりはややヨゴレ系、コワモテ系ということで、婦女子の人気はイマイチ、しばらくはヒットにも恵まれなかった。でも音にうるさい男性ファンの支持は根強く、70年前後の「ミュージック・ライフ」(洋楽中心のポピュラー音楽誌)では、日本のバンド部門の人気投票において、ゴールデン・カップスと人気を二分する存在だった。

そんな彼らのデビュー曲は、後に超売れっ子作詞家となる阿久悠の、デビュー作でもあった。

作曲は、学生ミュージシャン出身の村井邦彦が担当。後には作曲家としてだけでなく、名プロデューサーとして数多くのアーティスト(ユーミン、YMOなど)を世に送り出した村井も、まだ駆け出しの時代である。バンドも新人、ライター陣も新人、ということで、きわめてフレッシュな顔ぶれによる、新しい時代の音楽がそこに生まれていた。

このデビュー曲「朝まで待てない」は、後に4人編成で再録音されており、ベスト盤によって一般的にはその音源のほうがよく知られている。だから、このオリジナル録音を聴いたことがあるひとはほとんどいないんじゃないかな。

両者を比較してみると、オリジナルはいかにも67年という感じで、リズムがだいぶんモタって聴こえるが、まあこれは当時の標準ってところだろう。ストーンズだって、67年当時にはこのレベルの演奏しかしてなかったし。

星勝のファズまみれのギターも、当時を感じさせて、懐かしいの一言。たしかに「サイケ」ではある。

その一方で、歌のほうはあまり変化していない気もする。オリジナルでは、鈴木ヒロミツ&星勝のツイン・ボーカルスタイル、再録音版ではヒロミツのソロ+コーラスという違いはあれど、共にその男臭さ、野太さはハンパじゃない。歌詞だってそうだ。ここにあるのは、青春のもどかしさ、悶々とした感情、つまり「欲望」そのものであって、ヘンにリファインされ、牙を抜かれた「恋心」ではない。男の自称や恋人の呼び名も「僕」と「きみorあなた」ではなく、「俺」と「お前」なのである。一般的なGSの、奇妙なまでに性的なものを排除した演出とは、対極にあるといってよい。

これじゃあ、ロマンティックしたい婦女子どもにはドン引きされるよな(笑)。

しかし、だからこそ、オトコどもには絶大な支持があった。虚構で塗りかためたような「蝶よ花よ」のGSワールドにはない、たしかな手応えが、モップスの音楽にはあったのだ。

彼らが目標としたバンド、アニマルズやゼムにもけっしてひけを取らないパッションを、67年の演奏に聴きとってもらいたい。モップスは、デビュー時からロックとは何かを掴んでいた、レアなバンドだったことがわかる。本物の音は何十年たとうが、まったく色あせないね。

この曲を聴く(オリジナル版)

この曲を聴く(再録音版)

2012年6月17日(日)

#221 ビッグ・ジョー・ターナー「The Night Time Is the Right Time」(Jewel Spotlights The Blues, Vol.1/Jewel Records)

ブルース・シャウター、ビッグ・ジョー・ターナー。2009年1月以来、ひさしぶりの登場である。

ナッピー・ブラウンにより戦後ヒットした「The Night Time Is the Right Time」のカバー。もともとはトラディショナルだったが、ルーズヴェルト・サイクスによって37年に初めてレコーディングされ、その後、サイクスやビッグ・ビル・ブルーンジーによって歌詞が改められていった。これにコール&レスポンスのゴスペル風味付けをして、個性を打ち出したのが、ブラウンだった。

ブラウン版は57年に録音されたのだが、この曲の強い魅力にいちはやく目をつけたのが、レイ・チャールズ。さっそく翌年にはカバーして、ご本家を上回るヒットを打ち立ててしまった。以来、ルーファス&カーラ・トーマス、ジェイムズ・ブラウン、アニマルズ、ルル、ティナ・ターナー、CCR、ローリング・ストーンズといったさまざまなアーティストによって歌われ、ポップ・スタンダードとなっている。

そんな名曲をベテラン、ビッグ・ジョー・ターナーは60年代にジュエル・レコードで録音している。

迫力満点のブラス・セクションの演奏を向こうに回し、おなじみのハリのある歌声を聴かせてくれるのだが、当時ターナーは50代なかばあたり。

すでにジャンプ・ブルース、ロックンロールのヒット・メーカーとして確たる地位を築いていたターナーが、初心にかえって若者のようにブルース&ゴスペルを熱く歌う。これが実にカッコええ。

その並々ならぬ気合いに圧倒される一曲。音の奔流にまみれてくれ。

この曲を聴く

2012年6月24日(日)

#222 ボックス・トップス「The Letter」(Best of the Box Tops/Arista)

ボックス・トップスはメンフィス出身のアレックス・チルトン(vo,g)を中心とした5人組バンド。67年にこの「The Letter(あの娘のレター)」で全米チャート1位に輝いたが、そのときチルトンはなんと16歳。スティーブ・ウィンウッドも顔負けの早熟ぶりであるね。

このシブ〜い塩辛声の持ち主がミドルティーンだったなんて、とても信じ難いよな(笑)。

ボックス・トップスはその後、何曲かヒットを出して、70年に解散。チルトンは70年代にはビッグ・スターという新たなバンドで活躍。その解散後、79年よりソロで活動するも、時代の流れに乗れず、一時はプロを辞めていたようだ。

80年代にはチルトンの音楽がR.E.M.などの後輩ミュージシャンたちの後押しもあって再評価され、93年にビッグ・スターを再結成して活動していたのだが、さしたるヒットもなく、2010年、59歳の若さで亡くなってしまった。

若いうちに究極の栄光をつかんでしまったチルトン。ひじょうに残念な後半生を送ったわけだが、その音楽の素晴らしさは、この空前のヒット曲がいまだに流れているということで、十分わかるだろう。

メロディラインのセンスのよさ、ことに転調してからのサビのカッコよさといったらないと思う。

これをあのハスキー・ボイスで歌えば、そりゃあヒットして当然ってものだ。

この曲はその後、ジョー・コッカーがカバーして再度ヒットしている。コッカーは、原曲通りのメロディラインで歌わず、かなりフェイクしているが、レオン・ラッセルのすぐれたバックアップのおかげもあって、またひと味違う佳曲に仕上がっている。

ブルース、R&B、カントリーなど、アメリカ南部音楽のエッセンスを詰め込んだ、ボックス・トップスのサウンドは、やはりチルトンのコンポーザー、シンガーとしての才能によるところ大だ。ジョン・フォガティ、レオン・ラッセルにも匹敵する偉大なシンガー/ソングライター。知らない人もぜひ、聴いてみてほしい。

この曲を聴く

2012年7月1日(日)

#223 デュラン・デュラン「Thank You」(Thank You/EMI)

デュラン・デュランによるレッド・ツェッぺリンのカバー・ナンバー。95年リリース。ロバート・プラント、ジミー・ペイジの作品。

デュラン・デュランは英国バーミンガムでニック・ローズ(kb)を中心に結成されたロック・バンド。81年にメジャー・デビュー。何度かの休止期を経つつも、現在もなお、トップ・バンドとして活躍している。

デビュー間もない80年代の彼らの人気といったら、ホントにすさまじまかった。出す曲、出すアルバムがすべてチャートイン、ビジュアルのよさもあってMTVの常連的存在でもあった。女性ファンの多さゆえに、彼らを80年代のビートルズに喩えるむきも多かった。

しかし、88年あたりを境に、しばらく表舞台から遠ざかるようになる。チャートインもピタッと途絶えてしまう。

そして約5年のブランクを経て93年、「ザ・ウェディング・アルバム」で復活、その中の2曲をヒットさせて、健在ぶりを示したのである。

きょうの一曲は、そんな「第二次黄金時代」に入った彼らの第二作、全編カバーという思い切った試みのアルバムからのタイトル・チュ−ン。

ご存じZEPのセカンド・アルバムのA面4曲目。ゆったりしたテンポのバラード・ナンバーだ。

この曲を特に気に入っていてレコーディングを提案したのは、ギターのウォーレン・ククルロ。リード・ボーカルのサイモン・ル・ボンは、ロバート・プラントとはだいぶん個性が異なる歌い手だが、難曲を見事自分のものにして、ZEPとはひと味違った世界を作り出している。

アレンジもZEPのオリジナル版をお手本にしながらも、楽器の選び方、レコーディング技術などに彼らなりの工夫を凝らして聴きごたえあるサウンドに仕上げている。

なお、この「Thank You」は、同年リリースのZEPトリビュート・アルバム「ENCOMIUM」にも収められたが、そちらではキーボード・アレンジを変えるなどしたショート・バージョンになっている。

音がより洗練されているのは、ショートバージョンのほうかな。こちらも、聴きくらべてみて欲しい。

かねがね思っていることだが、デュラン・デュランというバンドに対する評価は、彼らの実力に比べてだいぶん過小なものではないかという気がする。

初期の彼らはえてして「イケメン・バンド」という評価にとどまりがちだった。まるでビートルズの初期のように。婦女子が好む、ルックスしか取り柄のないバンド、男性リスナーにおいてはそういう扱いだった。

しかし、ビートルズが後に音楽性で頭角をあらわし、リスナーの支持を広げていったように、デュラン・デュランもただのアイドル・グループでは終わらなかった。

バンド結成10年を機に、日々のプロモーション活動に追われる状態からいったん降りて、5年ほど充電し、さまざまなアイデアをまとめて、新たなる局面(ステージ)へとむかっていったのだ。

アルバム「Thank You」を聴くと、彼らがいかにスライ&ファミリーストーン、パブリック・エナミーといったブラック・ミュージシャンの影響を受けているかが、よくわかる。

ブラック・ミュージックのビート、グルーヴ抜きでは、デュラン・デュランは語れない。

そういう意味でも、彼らはビートルズというよりはむしろ、レッド・ツェッぺリンに連なるバンドであるというべきだ。

きょうの一曲も、まさにそういう流れを証明する、トリビュート。

デュラン・デュランというバンドの懐の深さを、感じとってほしい。

この曲を聴く

この曲(ショートバージョン)を聴く

2012年7月8日(日)

#224 アレサ・フランクリン「(You Make Me Feel Like) A Natural Woman」(Lady Soul/Atlantic)

アレサ・フランクリン、67年のヒット。キャロル・キング、ジェリー・ゴフィン、ジェリー・ウェクスラーの作品。

クイーン・オブ・ソウル、アレサ(原音主義でアリサと書くむきもありが、ここは一般的な表記でいく)・フランクリンについては、あれこれ書き出したらキリがないので、ここはまず曲について。

キャロル・キングはソロ・デビュー(正確には再々デビューだが)以前の60年代、夫のジェリー・ゴフィンとのコンビで、主に黒人アーティストたちに「ロコモーション」「ウィル・ユー・ラブ・ミー・トゥモロウ」「アップ・オン・ザ・ルーフ」といったヒット曲を提供していたが、この「ナチュラル・ウーマン」もそのひとつ。

内容的には、それまでの楽天主義的なヒット曲群とはちょっと違っていて、より内省的で、人生や恋について深く考える歌になっている。

ひとりの男性と知り合い、恋をすることで、それまでとは違った、もっと自然体の自分にうまれ変わっていく、そういう「再生」のうたなのである。

当時、キングとゲフィンは夫婦としては末期を迎えており、翌年には正式に離婚することになるのであるが、そんな時期にも、これだけの素晴らしい歌を共作したというのは、驚くべきことではないかな。

そして、この良曲がさらに「名曲」とまで賞賛されるようになったのは、もちろん、アレサの歌唱力以外のなにものでもない。

アレサは当時25才。10代から結婚していたが、その夫兼マネージャー、テッド・ホワイトは彼女に暴力をふるうことも辞さない男。けっして幸福な実生活を送っていたとはいえなかった(のちに離婚)。そんな彼女自身の事情もあいまってか、「ナチュラル・ウーマン」は、深いニュアンスをもつ曲に仕上がったといえる。

歌手としては大ヒットを飛ばし、私生活も絶好調、一点の翳りもない人生を送ってま〜す、みたいな女性には歌えない、いや歌ったとしても非常に薄っぺらく聴こえてしまう、そんな曲なのである。

のちに、作者のキング自身も、有名なアルバム「つづれおり」のラストでこの曲を歌っているが、キング自身の人生経験も、この歌に強い魅力、輝きを与えているように感じる。

不幸な結婚、そして離婚という人生の悲劇を通して、よりしなやかでしたたかな自分を獲得していった、才能ある女性たち。

ありきたりな、ハッピー・エンドの歌にはない、リアルな人生を、この「ナチュラル・ウーマン」に感じとってほしい。

アレサの94年、当時の大統領夫妻を前に披露したライブも、あわせて観てほしい。20代の高いテンションの歌声も見事だが、50代の、少し抑え気味ながらじわじわと情感を高めていくような歌声も、それ以上に素晴らしい。

歳月を経て、より高いステージへと常に進化していくアレサ。けっしてひと所には、とどまってはいないのだ。

「誰もアレサに追いつくことはできない」。あなたもそう思うにちがいない。

この曲を聴く

この曲(94年のライブ)を聴く

2012年7月16日(月)

#225 バークレイ・ジェームズ・ハーヴェスト「Thank You」(Baby James Harvest/Harvest)

英国のロックバンド、バークレイ・ジェームズ・ハーヴェストの4thアルバム(72)より。結成以来のメンバーのひとり、ジョン・リーズ(g,vo)の作品。

バークレイ・ジェームズ・ハーヴェスト(以下BJHと略)は66年ランカシャー州オールダムで結成、紆余曲折を経て現在に至るまで活動を続けている、非常に息の長いバンドだ。

BJHのサウンドはこれまで「プログレ(ッシブ・ロック)」と呼ばれることが多かったが、曲によっては必ずしもそういう括りには当てはまらないものもあって、ジャンル分けすること自体、無意味な気がする。しいていえば、フォーク・ロック的な味わいの曲が多いと思う。

ボーカル・スタイルは、素朴で(よく「牧歌的」と称されている)強い個性、パワーには欠けるものの、聴きやすい素直な歌声だと思う。

どちらかといえば、ストリングスやメロトロンなどのキーボードをフィーチャーした、クラシック音楽と融合したような繊細なサウンドで知られているBJHにしては、わりと「ロックしている」のが、きょうの一曲。

印象的なイントロ、そして熱いギター・リフからはじまる「Thank You」は、メロディラインがわりと硬派で黒っぽい。よくスクウィーズするギター・ソロが前面にフィーチャーされており、それを非常に巧みなピアノがバックアップしている。BJHの、ロックンロール・バンドとしての本質を見せつけてくれるのだ。

曲としては、いわゆる「オチ」のような部分がなく、エンドレスで演奏が続いていく。4分半足らずなので、ちょっと短い感じはあるが、リーズのギター・ソロの出来のよさが、それを十分補っている。

ビートルズ的なメロディセンスのよさ、10CCのような高度のサウンド構成力を兼ね備えた彼らは、もっと評価されてしかるべきだと思うのだが、ほとんどヒットらしいヒットを出すことなく、いまだに地味な存在のままである。

でも、このアルバムはポップな要素と音楽性の高さが両立した、良作だと思う。40年たとうが、一聴に値すると思う。

躍動感に溢れた音楽、それがロックンロール。BJHもまたすぐれたロックンロール・バンドであることが、この一曲でよくわかる。

この曲を聴く

2012年7月22日(日)

#226 マイティ・ジョー・ヤング「Bring It On」(Mighty Man/Blind Pig)

ベテラン黒人ブルースマン、マイティ・ジョー・ヤングのラスト・アルバム('97)より。ヤングの作品。

マイティ・ジョー・ヤングは27年ルイジアナ州シュリーブポート生まれ。その後ウィスコンシン州ミルウォーキーからブルースの本場シカゴに移り、ハウリン・ウルフ、オーティス・ラッシュ、マジック・サムらのバック・ミュージシャンとして活動する一方、60年代は地道にソロ・シングルをリリースしていた。

71年にようやくデルマークからアルバム・デビュー。派手な人気こそ出なかったが、実力派シンガー/ギタリストとして注目されるようになる。

70年代にいくつかのレーベルから、6枚のアルバムを出したが、80年代にはなかなか後続作品が出せず、86年、神経の病気の手術後、ギターが弾けなくなってしまう。

90年に過去のライブ音源からのアルバム、そして97年にラスト・アルバムを出し、99年にこの世を去ってしまうのだが、ギターが弾けない体になってもなお、10年以上かけてこのアルバムを完成させたというのだから、ヤングの音楽にかける情熱はハンパではない。まさに命をかけた遺作。

アルバムには10曲が収録されているが、うち3曲は手術前の録音であり、ヤング自身のギター・プレイも聴ける。残りのトラックは、ウィル・コスビーというギタリストが演奏している。

きょうの一曲「Bring It On」は、手術前のライブ音源から。彼の歌とギターの魅力を余すことなく伝えているナンバーだ。

曲はステロタイプなスロー・バラード。どこかで聴いたことがあるメロディ・ライン、あるいは歌詞なのだが、とにかく彼の歌が圧巻なのだ。

録音された時期は、おそらく彼の50代後半だろうが、30年以上のプロとしてのキャリアが、その力強く、それでいて円みのある歌声に詰まっている。

男の孤独、哀感、憂愁。そういったものを、すべて感じさせてくれる、見事な歌唱なのだ。

ギターソロのほうは、ほんのワンコーラスなのだが、これまた琴線に触れる泣きの連続で、いうことなし。

特に目先の変わったこと、難しいことをやっているわけでない。でも、オーソドックスなスタイルの中にこそ、至高のものがあるのだと、彼の歌や演奏を聴いて感じる。

この良さ、子供にゃあわかるめぇと、ついつい思ってしまうのだが、いやいやむしろ、若い衆にこそ、味わってほしいのだよ。時間をかけて熟成させた本物の美酒が、そこにはあるのだ。

この曲を聴く

2012年7月29日(日)

#227 ローリング・ストーンズ「Ain't Too Proud To Beg」(It's Only Rock 'N Roll/Rolling Stones Records)

ローリング・ストーンズ、74年のアルバムより。ノーマン・ホイットフィールド、エディ・ホーランドの作品。

今年結成50周年を迎えた、ストーンズ。ミック69歳、キース68歳、ロニー65歳、チャーリー71歳。平均年齢、実に68歳超ながらもますます意気盛ん、最長命のトップ・バンドとしての記録を更新中である。

そんな彼らの、一番脂が乗り切っていた時代のレコーディング(ロニーは未参加だが)。

曲はといえば、60年代に一世を風靡した黒人ボーカルグループ・テンプテーションズの大ヒット曲。プロデューサーが名チームとの誉れ高いHDH(ホーランド=ドジャー=ホーランド)から、ノーマン・ホイットフィールドにバトンタッチされてからの作品。ただし、作詞はエディ・ホーランドが残留して担当している。

ストーンズの演奏スタイルについて、いまさらあれこれ語るのも野暮というもんだろう。とにかく、「ストーンズ流」を何十年も貫き通している。60年代の末にギターがブライアン・ジョーンズからミック・テイラーに交代したあたりでサウンドがほぼ完成、以降は若干時代のテイストを加味しながらも、基本的な線はあくまでも墨守するという流儀が続いているのだ。

そしてなにより変わらないのが、ミック・ジャガーのボーカル。特徴あるダミ声はそのまま、特に技術的に向上したという印象はないが、それでも彼の存在感は、他のすべてのロッカーたちを軽く凌駕している。ストーンズは、やはり、ミック不在ではストーンズと呼べまい。

「Ain't Too Proud To Beg」もまた、典型的な「ストーンズ節」のひとつだ。スタジオ録音のデッドな感じが、オリジナルのテンプテーションズの立体的なサウンドとは対照的で、音響に奥行きはないかわりに、すぐそばでストーンズで演奏してくれている感じ。

この曲のキーポイントは、やはり前面にフィーチャーされているピアノだろうな。演奏しているのは、6人目のストーンズことイアン・スチュアートではなく、5人目のビートルズこと、ビリー・プレストン。彼の叩き出すタイトなリズムなしでは、この曲はしまりがなくなったに違いない。

この曲ではギターリフやソロに頼ることなく、ひたすらミックのボーカルと、バックのコーラスでまとめている。このコーラスにしても、テンプスのプロフェッショナルらしく洗練されたそれとはだいぶん趣きが違って、いかにもラフな仕上がりなのだが、そこがまさにストーンズ流なのだ。

モータウン発の都会的な楽曲も、ストーンズがアレンジすれば、むしろ南部風の、泥臭いながらも懐かしさを感じさせるナンバーに一変する。

これぞストーンズ・マジックであり、変わらぬ魅力のみなもとだと思うね。

どのくらい違っているかを知るために、オリジナル版も加えてみた。ぜひ、じっくりと聴き比べてみて。

この曲を聴く

オリジナル版(テンプテーションズ)を聴く

2012年8月5日(日)

#228 レイ・パーカーJr&レイディオ「Jack And Jill」(ベスト・オブ・レイ・パーカーJr/BGM JAPAN)

レイ・パーカーJr&レイディオ、78年のデビュー・ヒット。レイ・パーカーJrの作品。

34年前のヒットだから覚えているご仁も少なかろうが、筆者は当時大学2年。人生で一番ヒマでゆとりがある時期だったので、さまざまなジャンルの音楽を貪欲に聴きあさっていた。で、当時AMといわずFMといわずものすごく頻繁にかかっていた(いまでいうところのパワープレイね)のが、この曲だったという記憶がある。

「Jack And Jill」は、彼らの初めての日本でのヒットでもあった。ただ、その頃は単に「レイディオ」というアーティスト名だった。インターネットのなかった時代、洋楽情報はきわめて少なく、白人のロックなら「ミュージックライフ」という雑誌が詳しい情報を提供してくれていたが、ブラックミュージックについてはほとんど取り上げてくれない。誰がこの曲のリードボーカルかということさえ、皆目わからなかったのだ。

その後、レイディオは解散、リーダーだったレイ・パーカーJrがソロとして再デビュー、「A Woman Needs Love」「The Other Woman」などのヒットを出して、筆者もようやくその名を知ることとなったのだ。

レイ・パーカーJrについて調べてみると、55年ミシガン州デトロイトの生まれ。12歳でギターを始めた、というあたりはごく平均的なのだが、早熟の天才タイプだったようでたちまち上達、翌年13歳で黒人グループ、スピナーズに参加、スティービー・ワンダー、グラディス・ナイト、テンプテーションズのバックを経て、15歳でインヴィクタス/ホットワックスレーベルの専属ギタリストになってしまう。文句なしにスゴい人なのだ。

以後は売れっ子セッション・ギタリストとしてアレサ・フランクリン、ビル・ウィザーズ、ボビー・ウーマックらのバックをつとめる一方、ソングライターとしてバリー・ホワイト、ナンシー・ウィルスン、ルーファスらに楽曲を提供している。

フツーはそのまま進めば、辣腕プロデューサーとして音楽界に君臨、って方向にいきそうだが、この人、本質的に自分自身が目立ちたい人のようで、22歳の頃くだんのレイディオを結成、自ら歌い始めるんである。

まあその歌は、ものすごくうまいってレベルではなく、いいとこプロの歌手として及第点ってところなのだが、彼の真の面目は、そのサウンド作りのセンスにこそあるといえよう。

もともとスタジオ・プレイヤー出身だっただけに、アレンジ、ミキシングなどはお手のもの、トータルバランスのとれた音作りが出来る才能の持ち主なのだ。

歌はまあご愛嬌って程度でも、そのサウンドはきわめてダンサブルでグルーヴ感にあふれている。これがレイ・パーカーJrの魅力。

もっとも、ご本人のほうは、どうもその世間的な評価とは違う自己認識をしているみたいで、「オレってイケてる?セクシー?」みたいなアピールをしきりにやってみたり、かと思うと「ゴーストバスターズ」みたいなおちゃらけた方向に走ってみたりで、やや迷走気味なのが残念。

先年、クルセイダーズが来日した際に、そのサポート・メンバーとして参加していた彼の演奏を観る機会があったのだが、生真面目に演奏していたかと思えば、回りにのせられるとついついお調子者になってしまう、みたいな「ちょっとおかしな人」だった。残念ながら、どう逆立ちしても「セクシーなスーパー・スター」にはなりえないね、彼は(笑)。

でも、演奏者、作曲家、アレンジャーとしては超一級だと思う。この弱冠はたちそこそこで作った「Jack And Jill」もハンパない完成度で、さすが早熟の天才だと感服。円熟味さえ感じさせる、レイディオ・ワールドを堪能してみて。

この曲を聴く

2012年8月12日(日)

#229 ハウリン・ウルフ「Down In The Bottle」(Live In Cambridge, MA./New Rose)

ハウリン・ウルフ、1966年のライブ盤より。マサチューセッツ州ケンブリッジでの録音。

ウルフのライブ・アルバムとしては、以前「一日一枚」で「Live And Cookin' At Alice's Revisited」を取り上げたことがあるが(2001.2.24)、チェスから出ている公式ライブ盤はその一枚のはずだ。だが、実はもう一枚、市中で堂々と売られているライブ盤があるのだ。

それがこの「Live In Cambridge, MA.」。発売元はフランスのニュー・ローズというレーベル。

アメリカでの録音なのにフランスからリリースとは、まったくもって???なのだが、まあ、事実上ブートレッグ(海賊盤)だからなのだろう。

だから、音質のほうははっきりいってひどい(笑)。筆者のようなウルフマニアでもない限り、購入の必要はないかな。

でも聴いてみるとなかなか興味深いものがある。演奏メンバーは、ウルフ&サムリンに加えて、アリスでのライブにも登場していたエディ・ショウ(t.sax)のほか、ベースは不明、ドラムスは当時バターフィールド・ブルース・バンドにも参加していた、サム・レイ。

アリスでのライブと聴きくらべてみると、一番際立っている差異は、ドラム・プレイだと思う。「静のアリス」に対しての「動のケンブリッジ」。そんな明白な違いがある。

ちなみにアリス盤におけるドラムスは、フレッド・ビロウ。彼は典型的なブルース・ドラマーのひとりといえるだろうが、細かいテクニックには凝るが、さほどパワフルとはいえないタイプ。一方、サム・レイは白人中心のバターフィールド・ブルース・バンドに、同じく黒人のジェローム・アーノルド(b)とともに参加していただけに、ロックなプレイもOKで、非常にパワフルなタイプのドラマーだった。

同じ黒人ドラマーといっても、だいぶんプレイ・スタイルが違うってことだ。これが、各時期のウルフ・バンドの音を大きく左右している。

きょうの一曲「Down In The Bottle」もその好例で、とにかく、サム・レイのプレイが熱いのだ。

まずは聴いていただこう。音質はきわめて悪いが、それでも彼のハッスルぶりが十分伝わってくると思う。

曲調は聴いてすぐおわかりいただけると思うが、ウルフ版「ローリン&タンブリン」。ハイテンポで切れ味鋭いサム・レイのビートに煽られてか、ウルフのボーカルやハープ、サムリンのギター、ショウのサックスもヒートアップ気味なのがよくわかる。

アリス盤における同趣向の曲「When I Laid Down I Was Troubled」と比較すると、一目ならぬ一聴瞭然だ。

66年当時、これだけ熱い演奏をしていたバンドが、どれだけあったか?といいたくなるくらい。そのテンションの高さは、同時代のクリームのライブにも負けていない。

結論。バンド・サウンドの決め手は、ドラムス。その演奏いかんで、バンド全体のテンションさえ、まったく変わる。

サム・レイのハイテンション・ドラミング、ぜひ体験してみて。

この曲を聴く

72年ライブ「When I Laid Down I Was Troubled」を聴く

2012年8月19日(日)

#230 ジョー・コッカー「You Are So Beautiful」(I Can Stand a Little Rain/A&M)

英国のシンガー、ジョー・コッカー、75年のヒット曲。ビリー・プレストンの作品。

ジョー・コッカーは44年サウス・ヨークシャー州シェフィールドの生まれ。学校を中退して働きながらプロの歌手を目指すが、下積みが長く、注目されたのは68年にA&Mより2度目のデビューをして、ビートルズの「ウィズ・ア・リトル・ヘルプ・フロム・マイ・フレンズ」のカバーがヒットしてからだ。

さらには、レオン・ラッセルのサポートのもと、69年ウッドストックに出演し、その圧倒的な歌唱力、激しいパフォーマンスを披露したことが、彼の人気を決定づけ、アメリカでも何曲かのヒットを飛ばすこととなる。

その後、「マッド・ドッグス&イングリッシュメン」という大所帯のツアー・バンド(リタ・クーリッジもその中にいた)を率いて活躍していたが、ラッセルや曲作りのパートナー、クリス・ステイトンがバンドを離れ、豪州で大麻所持により逮捕されたことも重なり、しばらくはヒットも途切れてしまう。

しかし、そこでへこたれずに、74年にアルバム「I Can Stand a Little Rain」の制作を再開、翌75年には同アルバムからカットされたこの「You Are So Beautiful」で大ヒットを飛ばしたのだ。まさに七転び八起きの人生。

この曲はもともと、黒人シンガー、ビリー・プレストンの74年のアルバム「The Kids And Me」に収められていたもの。同アルバムは「Nothing From Nothing」という大ヒットを生んでいるが、もう一曲、この「You Are So Beautiful」という名曲を擁していたのだ。

それまでも数々のカバー・ヒットを放ってきたコッカーはこれに注目、さっそく自らのレパートリーとして取り入れ、ご本家プレストン以上に売れてしまった。いまでは、「You Are So Beautiful」といえばコッカーの曲、というイメージすらある。

まずは、聴いてみよう。ピアノによる美しいイントロは、名ピアニスト、ニッキー・ホプキンスの演奏だ。

このシンプルな演奏をバックに、いつもの塩辛声で歌い始めるコッカー。途中からはストリングスが加わり、このラブ・バラードを盛り立てていく。わずか3分足らずだが、このうえなく高揚感のある愛のうただ。

この曲のヒットにより彼は、従来のブルーアイド・ソウルというカテゴリーから一皮剥けて、より普遍的な「ジョー・コッカー・ミュージック」を打ち立てたのだと思う。

お世辞にもイケメンとはいいがたい風貌、風体なれど、その真摯な歌声は、世界中のリスナーの心を捉えたのである。

以後も彼は、酒やドラッグ漬けからの脱却までさんざん苦労を重ねることになるものの、前向きに音楽に取り組んで、多くのヒットを出していく。一番ポピュラーなのは、なんといっても82年の米映画「愛と青春の旅立ち」の主題歌「Up Where We Belong」(ジェニファー・ウォーンズとのデュエット)だろう。なんと全米1位の大ヒットに輝いたのである。

それもやはり、この74年のカムバックが不発に終わっていたら、まずありえなかったことに違いない。ジョー・コッカーこそは、不屈の魂のひとだな。

音楽のもつ大いなる力(パワー)が、ショービズのゴタゴタ、酒・ドラッグで心身ともにズダボロになった彼を甦らせたのだ。そういう意味でいうと、この類い稀なるラブ・バラードはまた、音楽への永遠不滅の情熱、愛をうたったものとも言えそうだね。

この曲を聴く

2012年8月25日(土)

#231 ミスター・ビッグ「30 Days In The Hole」(LIVE/Atlantic)

アメリカのハードロック・バンド、ミスター・ビッグ、92年サンフランシスコでのライブ・アルバムより。スティーブ・マリオットの作品。

ミスター・ビッグは88年、既に他のバンドで実力のほどを証明していた技巧派4人がサンフランシスコで結成、89年アトランティックよりデビュー、即大人気を博したスーパーグループだ。

ミスター・ビッグといえば、どうしてもポール・ギルバートのギターやビリー・シーンのベースの超絶技巧で語られることが多いバンドだが、もちろん、バンドの魅力はそれだけではない。

リード・ボーカルのエリック・マーティンの歌のうまさに加えて、他のメンバーのコーラスワークもなかなかハイレベルであり、演奏・歌、その両面において、死角なしのスーパーなバンドといえるだろう。まさにバンド名にふさわしい実力なのだ。

ロックの歴史では、常に「ソロボーカル中心の時代」と「コーラス中心の時代」が、わが国の源氏平氏の政権交代のように、あるいはロシアのゲーハー/非ゲーハー大統領の政権交代のように、交互にやってくるというジンクスがある。

具体的に見ていこう。まず50年代は、エルヴィス・プレスリーによるソロボーカルの時代、次いで60年代はビートルズによるコーラスの時代、そして70年代はレッド・ツェッぺリンによるソロボーカルの時代というふうに、交互に訪れてくるのだ。

70年代の後半からは、ふたたびコーラス中心の時代になっていく。イーグルスとドゥービー・ブラザーズがその代表選手だ。

ひとりの強力なリード・シンガーですべてをカバーできればソロ、ひとりがそれほどの力を持っていない場合は、多人数のコーラスワークを前面に押し出していくことになるのだが、80年代後半以降は少し事情が変わってきたように思う。

84年デビューのボン・ジョビ、そしてこの88年デビューのミスター・ビッグに顕著だと思うのだが、ソロボーカルでも十分実力のある者を確保した上で、コーラスワークにも手を抜かず、ソロボーカルをさらに引き立てていくという戦略をとっているのだ。

前の時代の、各シンガーの少し弱いところをカバーするためのコーラスでなく、リード・ボーカリストとコーラス陣がともに高いレベルにあるという、より高次なステージへと進化しているのだ。似たようなことは、85年デビューのエクストリームについてもいえると思う。

こうなってきた背景としては、とにかくロックというものが一般化して、数十年前とは比べものにならないくらいロック・ミュージシャンの人数が増えたことがあるだろう。単に歌がうまいだけ、単に楽器がうまいだけでなく、その両方に熟達した層が増えてきたことが大きいと思う。

また、リスナー層も同様に厚くなり、聴く耳が肥えてきたことも大きい。歌・演奏ともに、より優れた、スーパーなものを要求するようになってきたのだ。

80年代半ば以降に登場するバンドは、そういうリスナーの「欲張りなリクエスト」に応えたバンドが多いといえる。

ただ、この高度の技術を追究する傾向があまりに行き過ぎると、当然、逆方向へ向かうバンドも出てくる。オルタナ/グランジという方向性だ。

さて、きょうの一曲について少しふれておくと、第2期ハンブル・パイ72年の名アルバム「スモーキン」に収められていたナンバー。

マリオットのブラック・ミュージックまっしぐらな嗜好がそのまま反映された「濃い」曲だが、ミスター・ビッグは相当この曲がお気に入りだったようで、89年のデビュー・アルバム「MR. BIG」で既にカバーしているのだ。

ライブでも、もちろん定番曲として演っていたわけで、テクニックの披瀝よりも楽曲本位で勝負しようという、彼らの意外とオーソドックスな指向性をそこに見ることができるだろう。

ハードでタイトな演奏はいうまでもないが、歌やコーラスの出来映えもなかなかのものだ。

「けれん」だけでなく、ベーシックな部分でもロックを深く追究するミスター・ビッグ。本物の才能とはこういうものだね。

この曲を聴く

2012年9月2日(日)

#232 ロスコー・ゴードン「T-Model Boogie」(Rosco's Rhythm/Charley)

1940〜50年代に活躍した黒人シンガー/ピアニスト、ロスコー・ゴードン、52年のヒット・シングル。ゴードン自身の作品。

ゴードンは28年(34年説もあるが、今日ではもっぱらこちらが有力のようだ)テネシー州メンフィスの生まれ。

彼といえば、マジック・サム、リトル・ミルトン、ロリー・ギャラガーらにカバーされてヒットした「ジャスト・ア・リトル・ビット」があまりにも有名で、その一曲だけのひとと思われがちだが、んなこたぁない、数々の輝かしいヒット曲を持つスター歌手だったのだよ、お立ち会い。

当時のメンフィスでは、若き日のB・B・キング、ボビー・ブランドといった新進気鋭のミュージシャンが活動していて、ビール・ストリーターズと総称されていたようだが、その中で頭ひとつ抜きん出ていたのが、ロスコー・ゴードンだった。

51年にレコードデビュー。同年リリースしたシングル「ブーテッド」がR&Bチャート1位となり、一躍スターダムに躍り出た。翌52年の「ノー・モア・ドッギン」も同じく2位。以降もチェス、デューク、サン、ヴィー・ジェイといったレーベルから、多くのヒットを放っている。

彼のスタイルは、明朗にして快活なピアノ・ブギだ。メリハリのはっきりした、躍動感あふれるそのブギは「ロスコズ・リズム」とも呼ばれたほどだ。

きょうの一曲もまた、その典型的なパターン。ラフともいえるラウドなボーカルと、ピアノの叩き出す強力無比のブギ・リズム。まさに、ロックンロールの原型的サウンドなのだ。

ワンパタ−ンなれど、実にアグレッシブでイカした音ではないか。当時大人気を博したのも、むべなるかな。

その後60年代後半には表舞台から消え、モダン・ブルース・シーンは、BBやブランドらが引き継ぐことになるのだが、モダン・ブルースのトップバッター的存在だったゴードンのサウンドは、海を越えてジャマイカの音楽にも少なからぬ影響を及ぼしたらしい。もちろん、そのリズムの魅力によって。

自分的には、ロリー・ギャラガーのカバーで初めて彼の存在を知り、その後もなかなか彼自身の音にふれる機会がなかったが、きちんと聴いてみると、その音楽のパワーにはとにかく圧倒される。

スタイルはブルースだけどポジティブ、聴くと生きる力がみなぎってくるのが、彼の音楽だと思う。

ロックの始祖のひとりともいえるゴードンの、圧倒的なストレート・パンチを喰らってみてくれ。

この曲を聴く

2012年9月9日(日)

#233 トミー・マクレナン「Baby Don't You Want To Go」(The Bluebird Recordings 1939-1942/RCA)

1930〜40年代に活躍した黒人シンガー/ギタリスト、トミー・マクレナンのナンバー。ロバート・ジョンスン「Sweet Home Chicago」のカバー。39年録音。

これまで取り上げてきたブルースナンバーの中でもかなり古い時代に属するのだが、聴いてみたら、みょうにビビッドでドキッとしてしまうんじゃないかな。

マクレナンは1908年、ミシシッピ州ヤズーの生まれ。ロバート・ジョンスン(14年生まれ)よりは、少し年長の世代である。

デルタ・ブルースとよばれるスタイルでは、後期に属している。シカゴに移住して都市で活動してはいたが、南部人の破天荒な持ち味をずっとなくさずにいたタイプ。

まず、声がスゴいよね。オリジナルのロバジョンとは対照的な、低めのダミ声で唸るようにこの歌をうたわれると、全然違った曲に聴こえてしまう。

野性的なのは声だけでなく、叩き付けるように弾くギターもまたワイルド。スギちゃんもビックリである。

ブルースマンが本来もつヤクザっぽい雰囲気を、まったく隠すことなく、さらけ出している感じだ。

やたらと「イエイ」というフレーズをはさむところ(口癖か?)といい、歌いながら笑い出したり、最後にはベティ・ブープの呪文のような言葉で締めるところとか、相当お茶目なひとだったようである。

シブさというより、インパクトとパンキッシュな感性で勝負する自由人タイプ。フリーダムな彼には、シカゴブルースの元締め的存在、ビッグ・ビル・ブルーンジーの睨みもきかなかったらしく、「ニガーなんて言葉を歌詞に使うな」という制止などまったく無視していたらしい。あっぱれな野生児であるな。

マジック・サム版やブルース・ブラザーズ版のヒットによって「Sweet Home Chicago」は、今日ではブルース愛好者、いやそれ以上の広範囲のリスナーでブルース・スタンダードとして認められているが、36年の初録音当時はまったく地味な存在であった。それがここまで大きな存在になったのは、このマクレナンによるカバーによるところ大だと思う。

何者にも縛られることのない、ヤクザっぽいところではどこか共通した因子をもつ、ジョンスンとマクレナン。このソウル・ブラザーズのふたつの魂が共鳴しあうことで「Sweet Home Chicago」は、とてつもなく大きなパワーを持つようになったのだと思う。

本能むき出しのストレートな表現力、ワンアンドオンリーなブルース者(もの)、トミー・マクレナンの渾身のひと咆え、一聴の価値ありです。

この曲を聴く

2012年9月16日(日)

#234 スタッフ「Signed, Sealed, Delivered I'm Yours」(Live Stuff/Warner Bros.)

1970年代に活躍したフュージョン・バンド「スタッフ」の、日本でのライブ盤より。スティービー・ワンダー、シリータ・ライト、リー・ギャレット、ルーラ・メイ・ハーダウェイの作品。78年、東京郵便貯金ホールにて録音。

スタッフは76年にアルバム「Stuff」でレコード・デビューした6人組。ツイン・ギター、ツイン・ドラムスにベース、キーボードという編成だ。もともと、ニューヨークのライブハウスやスタジオで活動していたプロミュージシャンたちが集うセッション・バンドであり、メンバーは流動的だったが、70年代なかばにはほぼ結成メンバーに固まり、ジョー・コッカーのアルバム「Stingray」 のバックや、モントルー・ジャズ・フェスティバルでのライブなどで注目されるようになる。

当時のフュージョン・バンドとしては、ホーン主体のクルセイダーズと好一対をなすかたちで、ギター中心のスタッフが、群を抜いて人気が高かったのを覚えている。

レコードデビューするや否や、FMラジオで連日パワー・プレイ。彼らの「My Sweetness」や「Foots」がかからぬ日はなかったと断言できる。

翌77年にはセカンド・アルバム「More Stuff」を発表、こちらも大ヒット。

その勢いに乗って、78年には初来日。きょうの一曲を含むライブ・アルバム「Live Stuff」を残すことになる。

さてそのスティービー・ワンダーの「Signed, Sealed, Delivered I'm Yours」、邦題「涙をとどけて」だが、実は6人全員の演奏によるものではない。ツイン・ドラムスのうちのひとり、クリス・パーカーはこのとき、急病のため参加できなかったのだ。

したがって、この演奏は正確には「スタッフ−1」によるわけだが、それがけっして悪い結果に向かわなかったのは、聴いていただければすぐわかると思う。

ツイン・ドラムスというのは、サウンドが多彩になるというメリットがある半面、演奏にそれなりに制御や連携が必要になり、ドラマーひとりの場合ほど好き勝手な演奏はできないということにもつながる。

今回は、もうひとりのドラマー、スティーブ・ガッドが思うがままにプレイしており、これがライブならではの魅力となっている。

曲は、終始アップ・テンポで軽快に進む。まずは、コーネル・デュプリーのギターによるテーマ演奏から始まり、リチャード・ティーのピアノがそれに絡んでいき、その後のギター・ソロが終わってからが、ホントにスゴい。

ティーの異常なまでに速いソロに、まったくひけをとることなくピタッとついていくガッドのハイハット・プレイ。お見事のひとことである。

そして、ハイライトはガッドのドラム・ソロが約1分10秒。そのハイ・テンションなプレイには、舌を巻くしかない。

その後、エリック・ゲイルの粘っこいギター・ソロが引き継ぎ、ステージは最高潮に達し「スタッフのテーマ」へとなだれこむのだが、長いので前半でカット。それでも11分30分以上におよぶわけだが。

とにかく、各メンバーの実力が最大限に発揮された一曲。

スタッフといえば、ティーのフェンダー・ローズをフィーチャーした透明感のある曲調、あるいはファンキーでやや泥臭いミディアムの曲調のものが多いようには思うが、本気を出せば、どんなバンドにも負けないハイ・テンションなアップ・テンポで演れるんだということがわかる。

ジャズの洗練とR&Bの泥臭さの絶妙なブレンド、それがスタッフという名のカクテル。

その究極のグルーヴを、味わってみてくれ。

この曲を聴く

2012年9月23日(日)

#235 バディ・ガイ「Let Me Love You Baby」(Damn Right, I've Got The Blues/Silvertone)

ことしで76歳。現役最年長ブルースマンのひとり、バディ・ガイ、91年のアルバムより。ウィリー・ディクスンの作品。

バディ・ガイは36年、ルイジアナ州レッツワース生まれ。57年にシカゴへ出て、マディ・ウォーターズらのバックミュージシャンとなる。翌年にはアーティスティックよりレコード・デビュー。以来、チェス、ヴァンガード、ワーナーなどのレーベルから、ソロおよびジュニア・ウェルズとのデュオとして、数々のアルバムをヒットさせている。

そんな彼も80年代は失速気味でレコーディングの機会に恵まれなかったが、90年代に入りシルバートーンに移籍するや息を吹き返し、以降、精力的にアルバム制作、そしてライブ活動を続けている。B・B・キングと並ぶ、「生きたブルース伝説」といえるだろう。

さて、きょうの一曲は、その大復活のきっかけとなったシルバートーンでのファースト・アルバムより。彼のチェスにおけるセカンド・アルバム「I Was Walking Through the Woods」に収められていた60年代の名曲、「Let Me Love You Baby」の再演である。

レコーディング・メンバーはバディのほかに、ジョン・ポーター、ニール・ハバードがギター、グレッグ・アーザブがベース、リッチー・ヘイワードがドラムスで参加している(ピアノはノー・クレジット)。3ギターという、厚みのあるサウンドが特徴だ。

ライブでも定番となっているこの曲、約30年間、何百、何千回となく演奏されているだけに、100%完成したスタイルとなっており、一瞬として無駄な展開がない。

おなじみの特徴あるイントロで始まり、そこからはもう、お約束の世界。ヒステリックなバディのシャウトが聴く者のハートをゆさぶり、派手にスクウィーズするナチュラル・ディストーション・ギターが、ところ狭しと暴れまくる。これくらい耳に心地よいバイオレンスはない、といっていいんじゃないかな。4分弱の短い一曲に、バディのすべてが凝縮されているのだ。

筆者も、10年前、2002年のジャパン・ブルース・カーニバルのトリで登場したバディ・ガイを観る機会があったが、とにかくハイ・テンションでとどまることを知らぬ66歳のパワーに圧倒されたことを、ほんの昨日のことのように覚えている。

彼の最近の演奏はyoutubeなどで観ることが出来るが、年齢とともに枯れていくどころか、パッショネイトなパフォーマンスはいまもまったく変わらないようだ。さすがやな〜。

引退することなく、このままずっと現役を続けていってほしいもんだ。いやホント。

この曲を聴く

2012年10月7日(日)

#236 ロバート・パーマー「Trick Bag」(Riptide/Island)

英国のシンガー、ロバート・パーマー、85年のアルバムより。アール・キングの作品。

パーマーは49年、ウェスト・ヨークシャー州バトリーの生まれ。10代の頃から歌い始め、72年にR&Bバンド、ビネガー・ジョーのボーカリストとしてレコード・デビュー。バンドは鳴かず飛ばずだったが、74年にソロデビューを果たす。

デビュー・アルバムのバックにはミーターズが起用されるなど、そのサウンドはアメリカ、それも南部への指向が非常に強かった。78年「Every Kinda People」が最初のスマッシュ・ヒット、翌年にも「Bad Case of Loving You」がヒットして、注目されるようになる。

80年代前半は、アメリカでのヒットが途絶えていたが、85年のアルバム「Riptide」からは「Addicted To Love」「Didn't Mean to Turn You On」が連続ヒット、それぞれ全米1位、2位という大成果を収める。

同年にはデュラン・デュランのアンディ・テイラーらに請われてスーパー・バンド、パワー・ステーションにも参加し人気を博したので、その年はパーマー最大の当たり年だったといえるね。

さて、きょうの一曲は、前述のヒット曲群ではなく、カバー・ナンバー。ニュー・オーリンズ出身のユニークなブルースマン、アール・キングの代表的ヒットだ。

つーか筆者的には、永井ホトケ隆さんが約10年前にやっていたバンド、そしてこの「巣」を作る直接のきっかけともなった「tRICK bAG」の名前はこの曲にちなんでいるので、非常に大きなモーメントをもっている曲なのだ。

ミーターズもカバーしたことのあるこの「Trick Bag」は、62年、キングがインペリアルにて録音。

キングは同じくN.O.で活躍したブルースマン、ギター・スリムの影響を強く受けているが、このふたりに共通するのは、脱力系といいますが、いい感じに肩の力が抜けたボーカル/ギターのスタイルでしょうな。

ほとんどヘタウマといってもいいのですが、でも侮れないのは、ふたりの作曲センス。

他の個性の違うシンガーが歌ってもピシッときまるような、メロディとリズムの絶妙なコンビネーションが心憎いばかりなのです。

この「Trick Bag」もまたしかり。パーマーの張りのあるボーカル・スタイルでも、キングのトボけた歌い口とはまた違った味わいがあるのですわ。

バックは80年代半ばだけに、流行を反映してかなりニューウェーヴ、あるいはエレクトリック・ポップ色が強く、シンセサイザー音がビンビンって感じだが、これもまたオリジナルのアレンジとは違ったカッコよさである。ちなみにプロデュースとベースは、シックのバーナード・エドワーズ、ドラムスは同じくトニー・トンプソン、キーボードはグレース・ジョーンズのバックなどで知られるウォリー・バダルー。ファンキーかつ洗練された先進的なサウンドは、彼らならではものだ。

彼らのある意味無機質的ともいえる音に、人間臭くアクの強いパーマーのボーカルが絡むことで、この「Trick Bag」は無双の出来ばえとなった。

いかにオリジナルとは異なる味を加えられるかで、カバー・ナンバーとしての成功/不成功は決まってくる。となれば、このパーマー版は、見事な成功例のひとつといえるだろう。

2003年に、54歳の若さでこの世を去ったのが本当に惜しまれるひとだ。でも、彼の遺したもろもろのアルバムを聴けば、いつだって彼の素晴らしさにふれることができる。

流行をうつし出したサウンドは、歳月を経て聴くと、ときにものすごく陳腐に思えたりするが、パーマーの場合はけっしてそういうことがない。それは彼の骨太の歌声が、ソウル・ミュージックというものの、根源的なものを確実に体現にしているからなのだ。必聴です。

この曲を聴く

2012年10月14日(日)

#237 バディ・ホリー「Not Fade Away」(The Best Of Buddy Holly/MCA)

ロックンロール草創期のスター、バディ・ホリー57年のヒット曲。チャールズ・ハーディン(ホリー自身)=ノーマン・ペティの作品。

ホリーは36年テキサス州ラボックの生まれ。56年にデッカよりレコードデビューするもヒットせず、翌年コーラルより再デビュー。「That'll Be The Day」がヒットして、人気シンガーへの道を歩み出す。

59年2月に飛行機事故のため、22歳の若さで亡くなるまで、短期間ではあったが華々しい活躍をし、ビートルズをはじめとする、後続の多くのバンドに大きな影響を与えている。

きょうの一曲「Not Fade Away」は彼の率いるバンド、クリケッツ名義でブランズウィックから57年10月にリリースされている。その頃は、ソロ名義とバンド名義とを使い分けていたのである。

まずは曲を聴いてみよう。おなじみのしゃっくり(ヒーカップ)唱法で明るく高らかに歌いあげているのが印象に残るが、それと同時にサウンドも特徴的だ。

つまりセカンド・ラインに源流をもつ、ボ・ディドリー・ビートってやつなのだ。まさに黒人音楽のリズムそのもの。

ホリーは白人なので、もちろんカントリーを聴いて育ったわけだが、エルヴィスやジェリー・リー・ルイスのような白人のロックンロール、さらには黒人のR&Bにも同様に大きな影響を受けている。

見た目は眼鏡にスーツ、いかにも都会のインテリっぽい白人青年だが、彼の音楽的嗜好は意外と黒人寄りだったりするのだ。

これはミック・ジャガーの発言だ。「レコードジャケットの写真を見るまでバディ・ホリーは黒人だと思っていた」「バディほど独創的な人はいない。ロックンロールの真の天才だ」。

つまり、ヒット曲はラジオで聴く、というのが一般的だった時代は、アーティストのビジュアルに接する前に、まず音そのものに触れるのが通例だったのである。

イギリスに住むミック少年は、まずラジオでホリーの歌声を耳にし、この人は白人なんだろうか、黒人なんだろうかと想像をめぐらし、しばらくしてホリーのレコードを見て、「えっ、白人だったの!」と驚いたのである。エルヴィスも、最初にオンエアされたときは、リスナーからはほとんど黒人だと思われていたというが、彼の唱法が、カントリーに代表される白人音楽のそれとはあまりにかけ離れていたからだろう。ホリーもまたしかり。

ホリーの見事なまでのハイブリッドなサウンド、そして野性派、肉体派のエルヴィスとはまったく違ったスマートで知的な雰囲気は、ロックンロールの新しいファン層を開拓した。それまでの「ガテン系」「不良系」な人々だけでなく、「一般ピープル系」をもまきこんだムーブメントとなっていき、それはビートルズやマージービートの諸バンドに引き継がれていく。

ところで、ローリング・ストーンズもこの「Not Fade Away」を演っていることをご存じだろうか。実は彼らのアメリカでのデビューシングルは、この曲だったのである。

ドスのきいたボーカルが売りのストーンズと、ハイトーンで歌うホリー、ちょっと意外な組み合わせだが、この曲がボ・ディドリー・サウンドであることを考えると、腑に落ちるのではないかな。

そう、雑誌ポパイのキャッチコピーじゃないけど「アメリカ大好き少年」だったミック、キース、ブライアンらにとって、ボ・ディドリー・サウンドを演奏すること自体、夢や憧れであったのだ。嬉々としてカバーしたのは、そういうわけだ。

ロックンロールという3分足らずのショーが、本国アメリカはもちろん、英国、日本など世界中の若者を魅了し、言語の違いさえも越えて、あっという間に世界標準となった。

その過程で、エルヴィスと同じくらい影響力があったのが、彼、バディ・ホリーだ。眼鏡ロッカーのはしりというだけでなく、ギター・バンドというフォーマットを定着させたのも大きな功績だ。今日、ホリーの作ったバンド・スタイルと無縁なバンドなんて、まず存在しない。

たった数年間の活動だけで、以後50年以上にわたって全世界に影響を及ぼし続けるなんて、やっぱりミックのいう通り、ホリーは天才以外のなにものでもないね。

この曲を聴く

2012年10月21日(日)

#238 レア・アース「Get Ready」(Get Ready/Motown)

白人ソウルバンド、レア・アース70年のヒット曲。スモーキー・ロビンスンの作品。

レア・アースはデトロイトで60年に結成された5人編成のバンド。当初はサンライナーズと名乗っており、68年にレア・アースに改名。69年にモータウンと契約、レコードデビューを果たす。

70年に同じレーベルの先輩格、テンプテーションズのカバーとして、「(I Know)I'm Losing You」そしてこの「Get Ready」の2曲を立て続けにシングルヒットさせ、注目を浴びるようになる。

モータウンと契約した白人バンドとしては、彼らより前にラスティックスというのがいたのだが、鳴かず飛ばずで終わったので、ほとんど知られていない。彼らが最初の成功ケースとなった。

既にこの手の白人バンドとしては、ダンヒル・レーベルのスリー・ドッグ・ナイトが華々しい成功を収めていたので、レア・アースはなにかにつけ彼らと比較されていたのを思い出す。

パッと聴いただけでは、とても白人とは思えない、パワフルな歌声とグルーヴあふれる演奏。公民権運動、あるいはオリンピックをはじめとするスポーツ界での活躍など、ブラック・パワーに押され気味だった当時のアメリカ白人層だったが、「白人だってソウルしたい」という願望を叶えてくれたということで、この二つのバンドの人気はうなぎ昇りとなったのである。

が、もちろん、黒人たちにとってはほとんど関心の対象とはならず、彼らのライブ映像を観ていただくとおわかりのように、観客すなわち支持層はもっぱら白人だった。

本家本元の黒人たちからすれば、「白人ソウルバンドは、しょせんオレたちの猿真似にすぎない」と思われていたんだろうなぁ。悲しい話だが、まあ、いたしかたないという気もする。

歌や演奏については、オリジナルと比べても遜色はないのが、いかんせん、見た目がイマイチだ。テンプスのあの垢抜けたパフォーマンスを観てから、都会出身なのにどこかもっさりした彼らを観ると「カッコいい!」とはいいがたい。

エディ・ケンドリックスの洗練されたファルセットに比べると、ドラマー兼ボーカルのピーター・リヴェラの歌声はちょいと暑苦しいしね。

ただ彼のリズム感については、さすがと言わせるものがある。ビートルズやストーンズを聴いてきてそれらが標準と思っていた当時の筆者の耳は、その抜けのよいドラミングに、ものすごく白人ばなれしたものを感じたのである。

いまならば、彼ぐらいの演奏はどうってことないと片付けられそうだが、当時の白人ドラマーとしては群を抜いていたのは間違いないだろう。

ただ、ルックス、パフォーマンス、作曲力など、演奏力以外の取り柄がなかったのが災いして、レア・アースはその後大きく人気が伸びることはなかった。日本での人気はないに等しかったしなぁ。

ということで、彼らのことを覚えているリスナーはいまではごく少数だと思うが、でもこうして動画サイトで約40年も昔のレアな映像が観られるってことは、少ないなりに熱心なファンがいるのだろう。

おそらく大半の皆さんにとっては、初めて聴く音だと思うが、きょうびのR&Bにはない、独特の熱いグルーヴがそこにはある。

レア・アースのうねるようなビート、一聴の価値ありです。

この曲を聴く

2012年10月28日(日)

#239 ライ・クーダー「Smack Dab In The Middle」(Chicken Skin Music/Reprise)

白人ギタリスト/シンガー、ライ・クーダー、76年のアルバムより。チャールズ・キャルフーンの作品。

クーダーといえば、ヒット曲こそ少ないものの、やたら玄人にウケる、いわゆる「ミュージシャンズ・ミュージシャン」の最右翼みたいなアーティストだ。

その音楽性は異常なほどカバー範囲が広く、ブルース、R&B、ソウル、カントリー、テックス・メックス、ケイジャンなど多岐にわたっている。

その彼の代表的アルバムが「Chicken Skin Music」だが、とにかくカバーしている曲のセンスには唸らされる。たとえばレッドベリーだったり、ピンク・アンダースンだったり、ベン・E・キングとリーバー=ストーラーだったりするわけだが、その中でも、ひときわ異彩を放っているのが、この曲なのである。

作者はチャールズ・キャルフーン。「誰や?」というツッコミが100%来そうだが、この人、実はイマイチな知名度のわりに、その作品がえらくさまざまなアーティストに影響を与えているんである。

本名、ジェシー・ストーン。といっても、ロバート・B・パーカーの書いた警察署長シリーズの主人公ではない(コアなネタですまん)。1901年カンサス生まれの、ピアニスト兼ソングライターなんである。

ミンストレル・ショーの一座で育った彼は、生まれながらのショーマン。20代半ばには「ブルース・セレネーダーズ」なるバンドを組んで、27年に最初のレコードを出している。同じくカンサスのジャズマンであるカウント・ベイシーとも付き合いがあった。

その後、カンサスからニューヨークに移住。ビッグバンドのリーダーとして、アポロ劇場に出演する一方で、ソングライター、アレンジャーとしても活躍するようになる。スウィング・ジャズ・ブームの一翼を担った一人なのである。

ルイ・ジョーダンが在籍していたチック・ウェブ楽団、ジミー・ランスフォードなどのために曲を書き、それらがヒットしていった。ただ、彼はあくまでも裏方に徹していたので、作曲家・ジェシー・ストーンという名前はさほど浸透していかなかった。

その後黒人音楽のメインストリームがスウィング・ジャズからR&Bに変化していくと、それにも見事に対応、ロックンロールの原型のような曲も生み出したのである。それが50年代のレイ・チャールズの「Losing Hand」や「Money Honey」、ビッグ・ジョー・ターナーの「Shake, Rattle And Roll」や「Flip, Flop Anf Fly」なのである。チャールズ・キャルフーンは、その頃使い始めたペンネームという。

それを知ると、彼が当時いかに強力なヒットメーカーであったかがわかるだろう。白人のリーバー=ストーラーにも匹敵する存在だったのだ。

60年代にはシンガー、ラバーン・ベイカーのプロデューサーとして活躍していたが、ほどなく引退。フロリダを余生を過ごす地として選んでいる。99年、その地で97歳の天寿を全うする。

彼の作品は、上記のシンガーのほか、エルヴィス・プレスリー、サム・クック、ビートルズなどさまざまなトップ・ミュージシャンたちが取り上げていて、枚挙にいとまがない。

ライ・クーダーもロック・コンポーザーの始祖としてのキャルフーンにリスペクトを抱いており、71年の「Into The Purple Valley」で「Money Honey」をカバーしており、本曲で二度目のカバーとなる。

聴いてみると、いかにもクーダーらしく、ブルース、カントリーなどのルーツ・ミュージックをゴッタ煮にして、ポップな味付けをしたような感じ。

この曲はもともとレイ・チャールズのレパートリーだったのだが、元歌とはかなり趣きが異なる。ふたりともyoutubeにライブ映像がアップされているので、聴き比べてみると興味深い。

ウィットのある歌詞といい、リズム感あふれるメロディ・ラインといい、バンド・ミュージックを知り尽くした人でなくては書けないカッコよさに溢れている。

レイ・チャールズのように、ジャズィにキメるもよし、ライ・クーダーのようにちょいとイナタくキメるもよし。歌い手を選ばないところが、また、名曲の名曲たるゆえんでしょう。

この曲を聴く

ライ・クーダー版ライブ

レイ・チャールズ版ライブ

2012年11月3日(土)

#240 ジョニー・ラング「Cherry Red Wine」(Wander This World/A&M)

今週も白人ギタリスト/シンガーだ。81年生まれの若手、ジョニー・ラング98年のセカンド・アルバムより。ルーサー・アリスンの作品。

ノースダコタ州ファーゴに生まれたラングは、12歳でライブに接してブルースに開眼、ギターを始めるや、みるみる上達してローカル・バンドに参加、フロントマンとなる。

インディーズのアルバムが3万枚も売れ、ルーサー・アリスン、バディ・ガイ、ジミー・ヴォーン、B・B・キングといったベテラン・ブルースマンとも共演して話題となり、96年、16歳の若さでA&Mよりメジャー・デビューしたという超新星であった。

その後も映画「ブルース・ブラザーズ2000」に出演したり、07年にはアルバム「Turn Around」でグラミー賞を受賞したりと、常に話題にはことかかないアーティストだが、日本ではあまり人気があるとはいえない、特にコアなブルースファンにおいては。

そのワケを考えてみるに、やはり、彼らに根強い「黒人ブルース原理主義」というのが大きくかかわっているのだろう。クラプトンの音楽でさえブルースとしてはあまり評価しない、みたいな。

しかしですね、音楽を人種・民族で切り分けるなんて、どう考えてもナンセンスでしょ。

すぐれた歌唱や演奏をしているのであれば、それが黒人だろうが、白人だろうが、はたまた東洋人であろうが、関係ないはず。

ジョニー・ラングは、さまざまな黒人アーティストを聴き続けてきた(筆者を含む)人々にも、十分訴求するものをもつ、本当の実力派だと思うのである。

論より証拠、まずはこの「Cherry Red Wine」を聴いてほしい。

これはルーサー・アリスンでおなじみのスロー・ブルース・ナンバーのカバーだが、ラングは過剰なまでの熱唱を聴かせてくれる。

もちろん、アリスン直伝の泣きのギター・プレイも素晴らしいのだが、それ以前にボーカリストとして十二分の表現力を持っていることが重要なのだ。

黒人ブルースマンでも、ギターは上手いが歌は愛嬌程度、みたいなのが多いなかで、彼は実に真剣に歌に取り組んでいることが伝わってくる。

ところどころヤリ過ぎ感があるのも否めないが(笑)、17歳の血気盛んな青少年としては、こういう「熱暴走」こそがふさわしいという気もする。

はっきり言って、高校2年のときの自分がこれだけ歌えていたかというと、まったく足元にも及ばなかったと思う。やっぱ、スゲー人なのだ、ラングは。

もちろん、「若いのにスゲー」という評価だけでは、すぐにやっていけなくなる。20代半ばともなれば、年齢による甘い採点はなくなる。

でもその後も、より男臭く、硬派なイメージで成長し続けるラングを見るにつけ、一過性のアイドル・ブルースマンではなく、その実力はホンモノだったんだなと感じる。十年、二十年としぶとく生き残り続けること、これこそがアーティストの実力の証明なのだ。

この曲を聴く

2012年11月11日(日)

#241 レオン・ラッセル「Hummingbird」(Leon Russell/Shelter)

シンガー/ソングライターのハシリ的存在である白人シンガー/ピアニスト、レオン・ラッセルのデビュー・アルバムより。ラッセル自身の作品。

レオン・ラッセルは42年オクラホマ州ロートン生まれ。10代の頃からバンドマン、またスタジオ・ミュージシャンとして幅広く活動し、その一方でカーペンターズをはじめとする多くのアーティストに楽曲を提供し、自らもソロ・シンガーとしていくつものヒットを飛ばしている。

ま、そのへんは皆さんご存じだろうから、ここでは詳しく触れるつもりはないが、その音楽の影響力はハンパなく、その交友関係はとてつもなく広かった。

例をあげてみると、デイヴィッド・ゲイツ(ブレッド)、ジェリー・リー・ルイス、ローリング・ストーンズ、エリック・クラプトン、ジョー・コッカー、フィル・スペクター、べンチャーズ、デラニー&ボニー、ビートルズ、スティービー・ウィンウッド、マーク・ベノ、エトセトラ、エトセトラ。とにかく、英米を股にかけた活躍ぶりだった。

彼の曲をカバーしたアーティストも、スゴい。レイ・チャールズ、B・B・キング、ジョージ・ベンスン、アレサ・フランクリン、フランク・シナトラ、ウィリー・ネルスンといった大どころが勢揃いなのだ。

そんな彼の諸作品の中でも筆者が気に入っているのが、「Hummingbird」である。

この曲は翌年、盟友ジョー・コッカーとのアルバム「Mad Dogs And Englishmen」でも再度録音されたが、なんといってもB・B・キングによるカバーで一躍有名になったといえる。

70年リリースのアルバム「Indianola Mississippi Seeds」に収められているバージョンは、BB本人のほか、ラッセル、ジョー・ウォルシュ、ラス・カンケル、メリー・クレイトンらが参加しており、ブルースと白人のポップス、ロックが融合されたサウンドとなっている。

一方、ラッセル自身のバージョンも、なかなか面白いアレンジだ。イントロはまるでデルタ・ブルースのような、アコギのストロークで始まるが、それに続くメロディ・ラインは必ずしもブルース的とはいえず、転調を繰り返したりして、まことに変幻自在だ。

そして、オルガンや女声コーラスやサックスのソロをたくみに配し、ドラマティックな音作りに成功している。

筆者がこの曲を聴いて、ふと思い出したのは、その後デビューすることになる、ビリー・ジョエルだ。

その声質こそだいぶん違うものの、ピアノをフィーチャーし、R&Bをベースとした粘りのあるサウンドということでは、両者は意外なほど近しい。

ラッセルのクセの強いダミ声に比べると、ジョエルのそれはかなり聴きやすく、よりポピュラリティを得やすかったということだろう。

それはともかく、ラッセルの生み出すメロディ・ライン、その創り出すサウンドは、職人芸とよぶにふさわしい。聴き手の期待をけっして裏切らず、いや、それ以上のものを必ず見せてくれるのだ。

トップ・アーティストたちを魅了したメロディ・メイカー、レオン・ラッセルの才能がまるごとつまった一曲。誰にでも出来るワザではおまへん。まさに神曲(かみきょく)であります。

この曲を聴く

2012年11月17日(土)

#242 ラリー・デイヴィス「Texas Flood」(Duke)

36年ミズーリ州カンサス・シティ生まれ、アーカンソー州リトルロック育ちのテキサス・ブルースマン、ラリー・デイヴィス、58年録音のシングル・チューン。デイヴィス自身の作品。

皆さんには、スティービー・レイ・ヴォーンのデビュー・アルバム(83年)のタイトル・チューンとしてあまりにも有名な曲であるが、オリジナルを聴いてみたいと思っても、この曲を収録しているCDで容易に入手できるものはほとんどなかったので、聴いたことのある人は意外と少ないんじゃないかな。

が、そこはIT時代の恩恵、いまでは単曲をmp3でダウンロードしたり、youtubeのような動画サイトで聴いたりすることが出来るようになった。まことにありがたい。

フライングVを握ったり、かついだりした写真でよく知られているギタリスト、デイヴィスだが、もともとはベーシストとして出発した。

50年代はフェントン・ロビンスンのもとで、また60年代はアルバート・キングのバックでベースを弾いており、独立後ギターに転向。68年にBBのヴァーゴ・レーベルでシングル録音をおこなう。

72年に交通事故に遭い、後遺症のためしばらくは引退状態だったが、周囲の励ましもあって82年カムバック。作品数は少ないものの、何枚かのアルバムを遺すも、94年に57歳の若さで亡くなっている。

遅咲きでヒットにもあまり恵まれず、初アルバムを出したのも交通事故からの復帰後、しかも若死にと、生きている間はあまり報われることがなかったが、いくつかの佳曲を遺し、それが死後も聴かれたり、カバーされたりしているのだから、ミュージシャン冥利に尽きるというものだろう。

まずは曲を聴いてみてほしい。レイ・ヴォーンでもおなじみの、特徴的なギターのイントロから始まる、スロー・ブルース。

シンプルなバック・サウンドに乗って歌われる、デイヴィスの適度に粘りのある声がいい感じだ。テキサスのいなたい雰囲気が、彼のちょっと脂っこい歌声にはある。

間違いやすいのだが、この曲で印象的な早弾きギターをキメているのは、歌っているデイヴィス本人ではなく、フェントン・ロビンスンなのだ。デイヴィス自身はベース担当なので、ご注意を。

したがって、デイヴィスのギター・プレイを聴きたいむきには、10年後、68年以降にレコーディングされた音源を聴いてみてほしい。そのころ以降の彼は、この「Texas Flood」みたいな、直球ど真ん中なブルースというよりはむしろ、ファンキー・ブルースのスタイルに移っている。

レイ・ヴォーンが90年にこの世を去り、彼の後押しを得て現役で頑張っていたデイヴィスもその後を追うように94年に亡くなってから、もう18年も経ってしまった。

でも、まったく変わることのない世界が、このわずか3分未満の音源の中に、いまもしっかりと続いているのだ。

VIVA BLUES、BLUES FOR EVERと呟きたくなるのだよ、この一曲を聴くたびに。

この曲を聴く

2012年11月25日(日)

#243 デフ・レパード「Action! Not Words」(Retro Active/Mercury)

イギリスのハードロック・バンド、デフ・レパード、93年のアルバムより。同国の先輩バンド、スウィート、75年のヒットのカバー。スウィートのメンバー4人の共作。

デフ・レパードはベースのリック・サヴェージを中心にイングランド・シェフィールドで77年結成、80年レコードデビュー。以来、何回かのメンバーチェンジをおこないながらも、現在も活動を続ける5人編成の長寿バンドだ。

レコードの売上げは全世界で6500万枚を越え、その半分以上がアメリカでのセールス。英国っぽさを余り感じさせない、アメリカ人ウケのする抜けのいいサウンドが、その理由だろう。

さてきょうの一曲は、70年代に一世を風靡したスウィートへのトリビュート。テンポにしても、細かいアレンジにしても、単なるカバーというよりは、フルコピーに近い一曲だ。

スウィートは68年結成・レコードデビューなのでデフ・レパードの大先輩格にあたる。フォンタナよりデビューするも鳴かず飛ばず。パーロフォンを経て、RCAに移籍後、マイク・チャップマンらのプロデュースにより、ヒットが出るようになる。日本では、ボ・ディドリー・サウンドの「ブロックバスター」(73)で初ヒット。余談だが、同じ頃、デイヴィッド・ボウイも「ジーン・ジニー」というボ・スタイルの曲をヒットさせていたので、「どっちがパクりか?」なんて筆者の仲間うちでは話題になっていたが、タネを明かせばなんのことはない、ともにボ・ディドリーの影響を受けたってことだ。それをいえば、ヤードバーズだって同じなんだが。

ともあれ、だいぶんバンド名が世間に定着してきたので、75年には自分たちのオリジナルで勝負をかけることになる。それが「フォックス・オン・ザ・ラン」とこの「アクション」の英米両国での連続ヒットだ。メンバー全員の共作による、新しいスウィートの世界が大ブレイクしたんである。

スウィートはいわゆるグラム・ロックにカテゴライズされることが多い。確かにメンバーたちのルックスやコスチュ−ムなど、ビジュアルはきわめてグラマラスだ。しかし、ただそれだけではない。サウンドは見事な本格派ハードロックで、ほぼ同時期に出てきたクイーンやUFOにも負けず劣らずのテクニック、パワーを持っている。さらに、彼らの作るメロディラインはポップなセンスに満ち溢れている。グラム、ハードロック、ポップの三位一体、それがスウィートなのだ。

バンド名や見てくれから、彼らを女性向けの単なる甘ちゃんバンドだとナメるとエラい目にあう。スウィートの本質は、筋金入りのロックンロール・バンドなのである。

その見事なショーケースが、この「アクション」。イントロから息もつかせぬ目まぐるしい展開を見せる、ジェットコースター・ロックとでもいうべき一曲。激しいテンポ・チェンジ、ケレンに満ちた速弾きギター・プレイ、きらびやかなコーラス。スウィートの魅力がてんこ盛りなのだ。

デフ・レパードは、その原曲をほぼ忠実に再現しているが、これを聴くに、ホント、70年代の曲とはとても思えない。音の感覚の新しさには舌を巻かざるをえない。

80年代を制覇したハードロック・バンドのひとつ、デフ・レパード。彼らの原点はスウィートにあった。ハードロックを基調としながらも、聴きやすさ、ポップネスを忘れず、歌でも勝負したから、彼らの成功はあったんじゃないかな。

新旧バンドの競演、ともにバッチグーです。

この曲を聴く

オリジナル(スウィート版)を聴く

2012年12月2日(日)

#244 ザ・フー「Squeeze Box」(The Who by Numbers/Polydor)

ザ・フー、75年のアルバムより。ピート・タウンゼントの作品。

シングルカットされて英国で10位、米国で16位を記録したスマッシュ・ヒットでもあるこの曲、いかにもカントリー調な明るいメロディラインが印象的だ。一方、歌詞的にはけっこう意味深で、スクイーズ・ボックス(アコーディオンのスラング)は性行為の隠喩だったりする。

こういうあけっぴろげで能天気ともいえる曲をさらっと書いてしまうのが、フーらしいところ。同時代のライバル、ストーンズやツェッぺリンだとこんなネアカな曲は作らんよね。

以前、当サイトの「パクりの殿堂」でも指摘したのだが、メロディラインの随所に、リーバー=ストーラーの「カンザス・シティ」っぽい節回しがあって、彼らのオマージュともいえるのだろうな。

ところで、ストーンズと並んで今も現役バリバリで活躍している彼ら、オリジナル・メンバーはふたりだけとなってしまったが、そのパワフルな音は健在だ。昨年のロンドン・オリンピックのフィナーレでの演奏を覚えているかたも多いだろう。

タウンゼント自身の息子やリンゴ・スターの息子など、次世代のパワーを補給することにより、伝説のウッドストックでのライブに象徴される、往時のテンションを維持できているのだと思う。

それにしても、70年代の日本ではZEPに大きく水をあけられていて、なかなか話題に上ることもなかったフーだが、セールスや人気での差はいたしかたないにしても、本当に大切な「音楽面の充実度」ということでは、けっしてひけをとっていないどころか、むしろ上回っていたんじゃないだろうか。

この3分足らずの「Squeeze Box」一曲をとってみても、イントロのアコギの響きにはじまり、切れのいいリズムギター、ソリッドなギター・ソロ、のどかなバンジョー・ソロ、そして曲のテーマであるアコーディオンの音色と、粒立ちのいい音がつまっており、さながらサウンドの万華鏡のようである。

ロックもポップ・ミュージックの1カテゴリであることをきちんと意識して、とてもわかりやすくキャッチーな歌を作ることにおいて、彼らはストーンズやZEP以上に「王道」な存在といえる。エルヴィスやビートルズの真の後継者、というと語弊があるが、ポップ・ミュージック本来の「明るさ」を持ち続けたという点において、ザ・フーはもっと評価されるべきだろう。

ブルースっぽい曲をやっても、決してベタなブルースにならないのが、ザ・フーらしいところ。クラシックを違和感なくロックに導入、融合させた功績も大きい。音楽的な懐の広さを、彼らのかつてのヒット・ナンバーに感じてほしい。

この曲を聴く

2012年12月9日(日)

#245 エルトン・ジョン&レオン・ラッセル「Gone To Siloh」(The Union/Verve)

エルトン・ジョンとレオン・ラッセルのコラボによる2010年のアルバムより。エルトン・ジョン=バーニー・トーピンの作品。

成功したミュージシャンだけが享受できる特権として「自分にとってのヒーローだった先輩ミュージシャンとの共演の実現」というのがある。

例を挙げれば、エリック・クラプトンとBB、ビリー・ジョエルとレイ・チャールズ、みたいなのが代表的だ。

で、エルトン・ジョンにとって憧れの対象のミュージシャン、それがレオン・ラッセルだった。

ポップ・シンガーとして成功したエルトン・ジョンと、スワンプ・ロックの先駆者レオン・ラッセル。取り合わせとしては、ちょっと意外な感じがしないでもない。

だが、エルトンの初期のアルバムを聴き返してみると、それも納得がいく。バラードという大きな柱の一方で、「Take Me To The Pilot」みたいな、アメリカ南部のR&Bに根ざした泥臭いロック、セカンド・ラインのようなリズムを強調したサウンドもまた、エルトンが本来やっていた音楽なのだ。

声質の違いはあるものの、エルトンの唱法、発音はどこかレオン・ラッセルのそれに通じるものがあるし、自分で曲作りをしてピアノを弾きながら歌うというスタイルは、やはりラッセルという先駆者の影響を抜きには語れないだろう。

このアルバムは全米で3位、英国でも12位とヒットを記録した。やっている音楽のシブさを考えたら、なかなか立派な数字だが、これはスーパースター、エルトンの人気に負うところ大だろう。

アルバムの発表に合わせて、ふたりはライブ・パフォーマンスも何回かおこなっている。そのひとつ、ニューヨークのビーコン・シアターで10年10月に行った演奏より、バラード・ナンバー「Gone To Siloh」を聴いていただこう。

スローなピアノ・イントロに導かれて、レオンがソロで歌い始める。しみじみとした曲調だが、エルトンとのハモりにより、じわじわと盛り上がっていく。

このふたりの声が実際に重ね合わさると、意外にイケるということがわかる。けっして、水と油みたいな感じにはならず、予想以上にしっくりとしたハーモニーなんである。

もともと長かった白い髪やヒゲをさらに伸ばしっぱなしにした68歳のレオン・ラッセルは、まるで仙人か隠者のようである。近年体調を崩してしまい、ようやく療養生活からカムバックしたばかり、ということもあって、けっして昔のように元気いっぱいではないが、むしろかつてのギラギラした雰囲気を「抑えた」感じが、みょうにシブかっこいい。

これに対してエルトンは、63歳になったというのに、どこかまだ「小僧」っぽくて、全然シブくはないのだが、そういうすべてが対照的なふたりが、ピッタリと息を合わせてひとつの音楽を構築する。実に素晴らしいことだと思う。

本物のアーティストたちによる、流行りものの音楽にはけっしてない、エッセンシャルな音を味わってくれ。

この曲を聴く

2012年12月16日(日)

#246 ザ・バンド「Slippin' And Slidin'」(Syria Mosque Legend/Vintage Masters)

ザ・バンド、70年11月、ペンシルバニア州ピッツバーグのライブハウス「シリア・モスク」でのライブ盤より。リトル・リチャードの作品。

ザ・バンドについては説明不要だろう。名前通り北米を代表するバンドとして、不動の評価を得ているのだが、彼らが現役で活動している67年から76年の間、ロックを聴き始めてまもない十代の少年であった筆者にとって、ザ・バンドはまったくといっていいくらい、琴線にふれることのないバンドであった。

だって、彼らときたら、みんな濃いヒゲをはやしてるし、服装も往年のギャンブラーみたいだし、オッサン臭いを通り越して、やたらジジむさいんである。

ロックバンドに求められるものは、こと十代のリスナーにおいては、見た目を含めての「カッコよさ」である。

音楽的にカッコいい、あるいはレベルが高いとわかっていても、見るからに年寄り臭い連中がやってるバンドになんて、食指が動くわけもない。

当時、ブリティッシュ・ハードロック、それも容姿のイケてるZEPあたりにノックアウトされていた筆者に、彼らの魅力などわかろうはずもなかった。周囲にだって「ザ・バンドってカッコいいよね」なんて言ってるヤツは、ひとりもいなかった。

しかしだ。そんな筆者でも、歳月とともに、彼らの良さがわかるようになってきた。

大音量のハードロックが全盛となろうが、あくまでもオールド・スタイルのロックン・ロールを演奏し続ける姿勢に、彼らなりの心意気を感じられるようになってきたのだ。

そうなるには、単に流行りものの音楽だけでなく、そのルーツにある、より昔の音楽を幅広く聴きこむというプロセスが、不可欠だった。いまのロックしか聴かない、ブルース、R&B、カントリー、フォークといった音楽には興味ない、ということでは、ザ・バンドの良さは分からずじまいだったろう。

さて、きょうの一曲は「のっぽのサリー(Long Tall Sally)」のヒットで知られる黒人シンガー/ピアニスト、リトル・リチャードの作品だ。

彼は本国アメリカにおいては、チャック・ベリーと並ぶロックンロール・スターとして高い評価をうけているのだが、日本においては、彼の曲がリアルタイムでヒットしたということはほとんどない。むしろ、白人ロックミュージシャンによるカバー・ヒットという、間接的なかたちでその名を知られていったのである。

その一例が、ビートルズによる「のっぽのサリー」のカバー版だ。ポール・マッカートニーのリード・ボーカルによるバージョンのほうが、ご本家よりずっとポピュラーなのである。

きょうの一曲「Slippin' And Slidin'」もまた同様だ。これはジョン・レノンの75年のアルバム「Rock 'n' Roll」に収められている曲であり、筆者を含めた大半のリスナーは、ジョンのカバー・バージョンで初めて耳にしたはずである。

が、ジョン・レノン以前にこの曲をライブでのレパートリーとしていた白人アーティストがいた。それがこのザ・バンドというわけである。

原曲同様、ピアノをフィーチャーした軽快なテンポのロックンロール・ナンバー。男女間の下世話な内容の歌詞が、いかにもリトル・ルチャードっぽい。

彼らはこの曲をかなり気に入っていたようで、ブートレッグなどでいくつものバージョンが残っている。その出来ばえは、グダグダなものも結構あったりでまちまちなのだが、このシリア・モスク版は、演奏がひじょうにタイトでいい感じだ。

歌はリーヴォン・ヘルムほか数人が担当。ラフでパワフルなコーラスを聴かせてくれる。ロバートスンのギター・ソロがソリッドにカッコよくきまっているし、ハドスンのオルガン・ソロもまたシブカッコいい。

そして曲のハイテンションなグルーヴを支えるダンコのベース、ヘルムのドラムスも見事だ。さすが、ロニー・ホーキンスというロックンローラーのバックからスタートしただけのことがある。カントリーと同じくらい、ロックンロールは彼らの本質なのだ。

ロックンロール・バンドの黒人における最高峰はネヴィル・ブラザーズであると筆者は思っているが、白人においては、ザ・バンドは王者ストーンズと並ぶ位置にあるといってもいいんじゃなかろうか。ロックンロールという「軽くて重い音楽」の本質を、彼らはその長いキャリアゆえに、完璧に体得しているのだ。

ライブ音源に、その絶妙なドライブ感を聴きとってほしい。

この曲を聴く

2012年12月23日(日)

#247 マイケル・ボルトン「(Sittin' On) The Dock Of The Bay」(Greatest Hits 1985-1995/Columbia)

アメリカの白人男性シンガー、マイケル・ボルトン、1987年の初ヒット曲。オーティス・レディング、スティーブ・クロッパーの共作のカバー。

「苦節十年」という表現がある。小林幸子、天童よしみ、あゆ朱美(戸田恵子)のように、若くしてデビューしながらなかなか芽が出ず、長い下積みの期間を経てようやく成功した芸能人についてよく使われるのだが、このマイケル・ボルトンの場合、十年どころではない。「苦節二十年」の人なのである。

53年コネチカット州ニューヘイヴン生まれ。ロシア系ユダヤ人で、本名はマイケル・ボロティン。68年、15歳でエピックよりレコードデビューしたものの、彼の名前が一般的に知られるようになったのは、この「ドック・オブ・ザ・ベイ」がトップ40に初チャートインした87年。実に19年もの歳月を、鳴かず飛ばずで過ごしてきたのである。まさに苦節二十年。

とはいえ、ブレイクのきざしは83年あたりからあった。当時彼はコロムビアに移籍してソロで再デビューしたばかりだったが、それと並行して他の歌手への楽曲提供もはじめるようになった。筆者もかつてインタビューしたことのある女性シンガー、ローラ・ブラニガンが83年に出したヒット「How Am I Supposed to Live Witout You(邦題・ウィズアウト・ユー)」がその一例である。他にはバーブラ・ストライザンド、キッス、ケニー・ロジャーズ、ピーボ・ブライスンといった大どころのアーティストの曲を書く機会に恵まれる。

ソングライターとしての実績を重ねる一方で、彼は新しい取組みを考えはじめる。85年ころまでの彼は、ハードロック/ヘビーメタルのシンガーとして活動していた。トレードマークともいえる彼のロン毛(いまはさすがに短く切っている)は、その時代の名残りであったということだ。

しかし、彼の本来の音楽的ルーツは、また違うところにあった。オーティス・レディングに代表される、サザン・ソウルである。

87年、これまでの自分のイメージを塗り替えるように、ハードロック・サウンドを抑えてソウル色を濃くしたアルバム「The Hunger」をリリースし、その中からカットされた「ドック・オブ・ザ・ベイ」を見事ヒットさせる。彼の資質とリスナーの嗜好が、初めてジャストミートしたのである。

これがきっかけとなり世間的に認知された彼は、2年後のアルバム「Soul Provider」を400万枚の大ヒットとする。現在の彼の人気・地位は「ドック・オブ・ザ・ベイ」あってのものと言える。

前置きが長くなったが、曲を聴いていただこう。オリジナルよりほんの少しスローテンポで、アレンジ的にはほぼオリジナルに忠実。ただ、中間のギターソロがかなり派手にフィーチャーされているのは、さすがに80年代という時代を反映しているといいますか。ゴスペル味のコーラスが加わるなど、音の響きも、相当分厚くゴージャスになっとります。

それにしてもやはり一番印象に残るのは、ボルトンの声だ。一度聴いたら忘れられないくらいの、超ハスキー・ボイス。よくこういう発声法で喉がおかしくならないなぁと感心するほどの、苦しそうな歌い方をするのだが、まさにそこが彼のソウルを感じさせるポイントでもある。

彼の悲痛な叫びを聴けば、聴き手はみな、楽曲に込められた悲しい想いをストレートに感じとることが出来るのだ。

理屈抜きに100%ソウルなボルトン・ワールドに浸ってほしい。御本家オーティス・レディングだって、草葉の陰から唸って聴いているかも。

この曲を聴く

2012年12月30日(日)

#248 グランド・ファンク・レイルロード「We're an American Band」(We're an American Band/Capitol)

グランド・ファンク・レイルロード、73年リリースのアルバムよりタイトル・チューンを。ドン・ブリューワーの作品。トッド・ラングレンによるプロデュース。

グランド・ファンクのことをあまり知らない若い世代のために説明しておくと、彼らは69年ミシガンにて結成、レコードデビューしたハードロック・バンド。デビュー当時、全員がはたち前後の若さだった。

最少編成のトリオながら大音量の激しいパフォーマンスが話題となり、「Heartbreaker」のヒットで世界的に人気を獲得した。日本でも雷雨の中での後楽園球場ライブ(71年)が、いまだに語り草となっている(もっとも、あのときはカラオケ・口パクによる演奏だったらしいが)。

毎年のようにアルバムをリリースし、それなりのセールスを記録していたものの、音楽的にいささか煮詰まってきたのが72年頃。それまではデビュー以前に同じバンドで演奏していたテリー・ナイトがプロデュースを担当していたのだが、彼と袂を分ち、かわりにキーボードのクレイグ・フロストを加えてセルフ・プロデュースに切り替え、サウンドをポップに変化させるなど、試行錯誤を重ねていた。

73年、彼らはついに決断、初めて外部プロデューサーにプロデュースを依頼する。やはりセルフ・プロデュースの限界を感じたのだろうか、実績のあるプロデューサーに起死回生策を託すことになったのである。それがかの奇才、トッド・ラングレンだった。

ラングレンは60年代に「ナッズ」というガレージ系バンドでデビュー。曲が書け、歌えるだけでなく、各種楽器をこなし、ミキシングなど技術関係にも明るいということで、他のアーティストのプロデュース、レコーディングを広く手がけており、グランド・ファンク以前にもザ・バンド、バッドフィンガー、スパークス、ニューヨーク・ドールズといったさまざまなタイプのバンドをプロデュースしていた。

この出会いが、グランド・ファンクの運気を一気に上昇させたのである。

シングル曲「We're an American Band」は、バンドのドラマー、ブリューワーの作品であり、歌も彼が大半を歌っている。

グランド・ファンクは、ギター、ボーカルのマーク・ファーナーのワンマン・バンドと思われがちだが、どっこい、ブリューワーも結構歌えるし、曲も書ける。ラングレンはそこに目をつけ、ファーナーの粘っこい歌声とはまた違った、豪放なブリューワーのボーカルをあえてフィーチャーしたのである。

これが見事功を奏した。「We're an American Band」は彼らのひさしぶり、いや最大のヒット(ビルボード1位)となり、ロック史上にも名を残したのである。ラジオだけでなく、ディスコでも毎日のようにかかっていた。

印象的な黄金色のジャケットをもつこのアルバムは、LPレコードも黄金の透過色だった。そして「フル・ボリュームでお聴きください」との注意書きが。

さすが、PA音量ではどこのバンドにも負けない!と自負していたグランド・ファンだけのことはある。

つまりこのアルバム、そしてタイトル・チューンは、彼らの高らかなる「全面復活/勝利宣言」でもあるのだ。

曲の内容は、彼らが同年、英国のバンド、ハンブル・パイとともにツアーをしていたときの逸話が下敷きになっている。英米どっちのバンドがスゲーか、酒場で議論になった。実際、米国のハードロック・バンドは当時英国勢に押され気味だった。でも、負けちゃいられない。「オレたちはアメリカン・バンドなんだ」。グランド・ファンクは米国代表として、まさに大見得を切ってみせたのである。

その他、歌詞には当時アーカンソーで有名だったグルーピー(バンドのおっかけというか○フレ)、スイート・コニーこと、コニー・ハムジーの話題も出てきたりして、ある意味生々しいトピック性を持つ。このへんは、当時歌を聴いただけでは日本人リスナーにはよくわからず、インターネットの登場で初めてわかったことだけどね。ロックバンドって 、やっぱりみんなスケ○だったの?なんて再認識しちゃったりして(笑)。ま、ロックの歌詞にはタブーなんてないのであります。

とまれ、この一曲、ロックのありとあらゆる「ウケ」の要素が詰まっている。キャッチーなメロディ、タイトでハードなリズム、心をゆさぶるシャウト、泣きまくるギター、うなるベース、効果的に入るキーボード、パワフルなコーラス。ギンギラギンというか、音の奔流というか、とにかく3分半弱の短い時間に、エンタメとしてのロックがてんこ盛りなのである。

ブルース系のやや地味なロックでスタートしながらも、何度も不死鳥のように甦り、脱皮を続けていったグランド・ファンク。売れてナンボのスタジアム・ロックの元祖として、芸術性などより、とにかくヒットを出すことにこだわり続けた姿勢に、ナンバーワン・アメリカン・バンドとしての心意気を感じる。「アメリカン・バンド」は永久に不滅なロック・チューンでありマス。フルテンで聴くべし。

この曲を聴く

2013年1月6日(日)

#249 リンダ・ロンシュタット「Blue Bayou」(Simple Dreams/Asylum)

リンダ・ロンシュタット、77年のアルバムより。ロイ・オービスン=ジョー・メルスンの作品。

ロンシュタットは46年、アリゾナ州ツーソン生まれの66歳。はたちそこそこで男女混成バンド、ストーン・ポニーズのボーカルでデビュー、69年にはソロ・デビューを果たしている。さほど下積みを経ることなく、74年の「悪いあなた(You're No Good)」あたりからヒットを連発するようになる。

77年2月には雑誌「TIME」の表紙を飾るくらいの「時の人」にまでなっていた。きょうの一曲は、その一番乗りに乗っていた頃の作品だ。

アルバム「Simple Dreams」に収められていたこの「Blue Bayou」と「It's So Easy」は、チャートの同時ベスト5入りを記録する。これは女性アーティストでは初めて、男女あわせてもビートルズ以来の快挙だそうで、当時いかに彼女が人気があったかのしるしだろう。

「Blue Bayou」は往年のロックンローラー、ロイ・オービスンのヒットのカバー。日本ではほとんど知られていない存在だったオービスンの名を広めるのに、この曲は一役かったのである。ちなみに、筆者が知ったオービスンの曲としては、この曲はCCRのカバー「ウービィ・ドゥービィ」に次ぐ二曲目であった。

バディ・ホリー作の「It's So Easy」についてもいえることだが、ロンシュタットは、同時代のシンガー/ソングライター以外による「ちょっと昔(10〜20年前)のいい曲」を取り上げるのが、実にうまい。

他にもレッド・ベリー&ウッディ・ガスリーの「Ramblin' Round」、ドン&デューイの「I'm Leaving It All Up to You」、モーマン=ペンの「The Dark End Of The Street」といった選曲は、通なリスナーを唸らせるものがあった。

思うに、彼女は自分がソングライターではなく、専業の歌い手だったぶん、いい曲を見極める目をより強く持つようになったのだと思う。つまり彼女自身がプロデューサー感覚で、選曲眼を研ぎすますようになったのである。

シンガー/ソングライターではないので、自作を言い訳に素人っぽい歌でお茶を濁すわけにはいかない。とにかく、ベストな曲&ベストな歌唱というのが、プロフェッショナル・シンガーたるロンシュタットに求められたものであろうし、また彼女自身も求めていたはずだ。

その証として、彼女は現在に至るまで、常にトップシーンで活躍し、アルバムを出し続けている。さまざまな音楽賞の、常連受賞者でもある。

その音楽性も、一時期強かったロック色が次第に変化し、ジャズ、R&Bなどのルーツ・ミュージックも含む、アメリカン・ミュージック全体をカバーするような方向へむかっているように思う。アーロン・ネヴィルとのコラボレーションも、そのあらわれのひとつではないだろうか。

オールアメリカン・ディーヴァ、リンダ・ロンシュタットの艶やかで力強い歌声に、耳を傾けてくれ。一過性の流行音楽を越えた、不滅の輝きがそこにあるから。

この曲を聴く

2013年1月13日(日)

#250 ブラック・クロウズ「She Gave Good Sunflower」(amorica./American Recordings)

ブラック・クロウズ、94年のサード・アルバムより。クリス&リッチ・ロビンスンの作品。

ブラック・クロウズは89年、ジョージア州アトランタにてロビンスン兄弟を中心に結成、90年にレコード・デビューしたロックバンド。2002年にいったん解散。2005年に再結成して活動を続けていたが、2010年12月、無期限の活動停止を宣言している。

90年代に登場したバンドとしては珍しく、60〜70年代のいわゆるクラシックロックのフォーマットにのっとったオーソドックスなハードロック・サウンドで、異彩を放っている。レトロと形容されることも多い。

ボーカル・スタイルにせよ、ギター・フレーズにせよ、ビートにせよ、70年代っぽさがぷんぷんと匂う音なのである。そのへんを評価されてだろうか、99年には大御所ジミー・ペイジとも共演し、2枚組のライブ盤を残しているぐらいだ。

さて、きょうの一曲は、彼らのアルバムでは最も完成度が高いとされる、陰毛はみ出しジャケット(!)で知られる三作目から。

聴いてみるとおわかりいただけると思うが、クリス・ロビンスンの、ポール・ロジャーズやスティーヴ・マリオットばりのソウルフルなボーカルが前面に押し出された作りになっている。やはり、彼の歌声こそがブラック・クロウズの「看板」なのだ。

そのあたり、何かと引き合いに出される、彼らと同郷の先輩バンド、オールマン・ブラザーズ・バンドと比較してみるといい。オールマンズは演奏面では高い評価があるが、ボーカル的にはイマイチというか、ちょっと弱いといわざるをえない。

ブラック・クロウズの演奏力だけに頼らず、ボーカルも含めた総合力で勝負している姿勢、筆者はこれを大いに買いたいと思う。

彼らの曲を聴いていると、いろいろな70年代バンドの面影が浮かんでは消える、みたいなところがある。そのへん、人によっては「オリジナリティがない」とかけなす向きもあるのだろうが、でも70年代のバンドだって、それ以前のアーティストの模倣から出発していたりするのだから(たとえばエアロスミスとか)、レベルの低いオリジナリティよりか、ハイレベルな物真似のほうがなんぼかマシという気がする。

もちろん、物真似が物真似のままでとどまっていたのではしょうがない。そこを突き抜けてこそ、ホンモノだろう。

ブラック・クロウズは、決して昔の音の再現には甘んじず、本歌取りというか、ちゃんと元のお手本にはない今ふうの要素をきちんと盛り込んで、彼らなりの世界を生み出していると思う。

若い連中にはピンとこないサウンドかもしれないが、オールドロックファンとしてはブラック・クロウズを大いに応援したいのである。その音に、どこかブリティッシュ・ロックに特有の「翳り」を感じるからでもある。

この曲を聴く

2013年1月20日(日)

#251 ベン・E・キング「Young Boy Blues」(The Ultimate Collection Ben E. King Stand By Me/Atlantic)

ベン・E・キング、64年のヒット・ナンバー。フィル・スペクター、ドク・ポーマスの共作。

ベン・E・キングといえば昨年も来日し、その健在ぶりを示したように、74歳になった現在も現役バリバリで活躍している人気シンガーだ。

38年ノースキャロライナ州ヘンダースンの生まれ。ニューヨークに移住し、58年に人気コーラスグループ、ドリフターズにクライド・マクファターの後釜として参加、60年までリードシンガーをつとめた。

ソロシンガーとして独立後も「Stand By Me」「Spanish Harlem」をはじめとするヒットを多数もち、ブームが去った後もリバイバルヒットを出すなど、根強い人気を誇っている。サム・クック、オーティス・レディングのような夭折のシンガーたちとは対照的に、実に息が長いのである。

そんなキングの、きょうの一曲は、筆者的に一番好きなナンバーを選んでみた。

独立して大ヒットを出し、ノリにのっている時期の作品。しかも作者は名プロデューサーのスペクターと、名ソングライターのポーマス。これ以上ない黄金のチームによって生み出された。

「Young Boy Blues」といえば、ザ・フーにも同題の曲があるが、もちろんふたつはまったくの別曲。

ザ・フーのほうはどちらかといえばいわゆる「怒れる若者たち」の心情を歌ったものだが、キングのほうはいかにもいかにもの、甘酸っぱい恋の歌である。ゆったりしたテンポのバラードだしね。

キングはこのスペクターの美しいメロディ、ポーマスの胸キュンな詩を、パワフルで艶のある声で高らかにうたいあげる。もうヒットしないわけがないね。

筆者が思うに、キングの声は、男っぽいプレスリーあたりとはちょっと違ってて、少し高めで少年っぽいというか、永遠のティーンエージャーみたいな印象があって、誰の耳にもすんなり入っていくと思う。「Stand By Me」が全米4位と、ウケにウケたのも、そういった理由があるんじゃないかな。

プレスリーなどと違い、キング自身はセックスシンボルとかそういう要素はほとんどないのだが、声はまさに神の領域にあった。

その天性のリズム感は、この一曲だけでも十分わかると思う。青春の輝き、そう、ベン・E・キングの歌ほど、その形容にふさわしい音楽はないと思う。

この曲を聴く

2013年1月27日(日)

#252 ジューダス・プリースト「Johnny B.Goode」(Ram It Down/Epic)

「概念的に言って、ロックンロールより優れたものはない」「ロックンロールに別の名前を与えるとすれば、それは"チャック・ベリー"だ」ジョン・レノン

ジューダス・プリースト、88年リリース、11枚目のアルバムより。チャック・ベリーの作品。

ジューダス・プリーストといえば、ヘビーメタルのパイオニア的存在。おおよそオールド・スタイルなロックンロールとは対極のところにある、と思われていた彼らが、映画会社から映画の挿入曲としてこの「ジョニー・B・グッド」のレコーディングを依頼されたのが、異色の楽曲が収録されたきっかけである。

86年の前作「Turbo」ではギター・シンセサイザーを導入、やや進歩的なサウンドに移行したことが、ファンからはあまり支持されなかったこともあって、本作ではよりシンプルでストレートなヘビーメタルに軌道修正をしている。ロックファンなら誰もが知っているチャック・ベリーの名曲を取り上げたのも、ともすればマニア向けバンドと思われやすい彼らなりの、一般リスナーへのアピールでもあったのだろう。

とはいえ、そこまでコマーシャルなことをするからには、彼らにとってチャック・ベリーのロックンロールが、重要かつ魅力あるものでなくては、このカバーはありえなかったろう。

60年代にロックバンドを始めた白人の若者たちにとって、チャック・ベリーは間違いなく、「父親」であった。

雛鳥が初めて目に入ったものを自分の親と思うように、チャック・ベリー(あるいはボ・ディドリーなどでもいいのだが)を聴いて夢中になった少年たちは、ベリーのことを音楽的な意味での「父親」だと思ったのである。

ベリー、ディドリーが親父なら、プレスリー、バディ・ホリーはカッコいい兄貴、そして彼らに絶大なる影響を受けたビートルズ、ストーンズは学校の先輩か同級生ってところか。

そうやって、少年たちは先人たちの音楽を真似しつつ、次第に彼らなりのオリジナリティを生み出していった。

ゴリゴリのヘビーメタルバンド、ジューダス・プリーストも例外ではなく、さまざまなスタイルのロックを聴き込んだうえで、彼ら自身のスタイルを確立させていったのだ。

基本はロックンロール・ビート。しかし、サウンドは常に最新のものをとりいれていく、これがロックの「進化」なのである。

ジューダスのきょうの一曲も、けっしてチャック・ベリーのオリジナルの再現を目指したものでなく、かなり大胆なアレンジを加えており、一聴して原曲とはだいぶん雰囲気が異なるが、でもこれもまた80年代版ロックンロール。

トリビュートとかカバーとかいうと、原曲に忠実に(下手するとアドリブまで再現とか)演るのが唯一のやりかただと思っている手合いが(プロにさえ)多いのだが、それではあまりに主体性のない「猿真似」ってもんだろう。

カバーするからには、オリジナルとは違うアイデア、アレンジがあってこそ、プロの仕事だと思いますぜ。

その意味でこの「ジョニー・B・グッド」は、しっかりとジューダス・プリースト流に料理、消化されていて、お見事のひとことだ。

そのビートの安定感は、超一級品。そしてロブ・ハルフォードの超高音ボーカルが、まるでこの曲が彼自身のオリジナルであるかと錯覚させるほど、ハマっている。

職人芸の域まで達したカバー・バージョン、大いに楽しんで味わってほしい。

この曲を聴く

2013年2月3日(日)

#253 アレサ・フランクリン「Won't Be Long」(The Great Aretha Franklin-The First 12 Sides/Columbia)

アレサ・フランクリンの初レコーディング集より。72年リリース。

67年以降、45年以上にわたってトップ・シンガーの座をキープしているアリサだが、彼女にも売れない時代はあった。

アトランティックと契約する67年に先立つこと7年。60年の8月に4曲を初めてレコーディングし、翌年にシングルとしてリリースしている。

ときにアレサ18才。なんとまだティーンエージャーだったのである。

バックをつとめたのは、名ジャズ・ピアニスト、レイ・ブライアントが率いるコンボ。

きょうの表題曲は、同年11月に録音されたうちの一曲。バックの編成としては、ブライアントのピアノ・トリオにもう一台、アレサ自身がピアノで加わっている。いわゆる連弾だ。

聴いていただけるとすぐ分かるだろうが、彼女の特徴あるエモーショナルなボーカル・スタイルが、60年時点ですでに確立されているのが分かる。まさに栴檀は双葉より芳し。

しかし、こうやって録音され、おもにジュークボックスの市場に向けてシングルリリースされた12曲は、ほとんど話題にも上らず、ヒットといえるようなヒットにならなかった。

それはなぜだろうと考えてみたが、まず大きいのが、アレサと契約したコロムビアが、彼女を「ソウル・シンガー」としてでなく「ポピュラー・シンガー」として売ろうと考えており、ジャズ・シンガーのような大人っぽいイメージで演出しようとしていたことだ。

たとえていうなら、ロング・ドレスを着て夜の酒場でしっとりと歌う感じ。

ティーンエージャーである彼女の若さよりも、卓越した歌のうまさに目をつけ、大人の女を演じさせようとしたのである。

ゆえに、ジャズ・ミュージシャンをバックにつけられたのであり、そのサウンドはソウルというよりは、明らかにジャズだった。

「Won't Be Long」にしても、アレサのパワフルな歌とバックのジャズィな音との「ちぐはぐ感」は否めない。

他に録音した曲には「Over The Rainbow」「By Myself」などというジャズ系のスタンダード曲もあるが、やはりアレサの歌声とはミスマッチ感が漂う。無難に歌いこなしてはいるのだが「コレジャナイ」とどうしても思わせてしまうのである。

大レコード会社ゆえに、既存のポピュラー・ミュージックのフォーマットでどうしても作ってしまうコロムビア。新時代の音楽である、ソウル・ミュージックへの取組みが、明らかに遅れていたということである。インディーズのソウル専門レーベルと契約しなかった、ということが60年代前半のアレサの、不遇の原因といえるだろう。

その後しばらくして、アレサは新興のレーベル、アトランティックに引き抜かれる。67年のことである。

仕掛人の名は、ユダヤ系白人プロデューサー、ジェリー・ウェクスラー。

彼の功績については音楽評論家、吉岡正晴さんのサイト「ソウル・サーチン」にて詳しく述べられているので、詳しくはそちらに譲るが、その彼の華々しい業績の中でもひときわ輝いているのがこの、アレサ・フランクリンを移籍させ、トップ・ソウル・シンガーに育て上げたことに違いない。

才能あるものを見出し、超一流の人材に育てる名コーチ役のことを、中国の故事になぞらえて「伯楽」とよぶが、ウェクスラーはソウル界随一の 「伯楽」であった。

シンガー/ソングライターとは違って、アレサのようなほぼ専業といえるタイプのシンガーは、ヒットするもしないも、与えられる楽曲次第のところがある。優れたプロデューサーなしでは、世に出て人口に膾炙されることはきわめて難しい。

ウェクスラーとの出会いがもしなかったとしたら、アレサの人生は、まったく違ったものになっていたはずだ。

名馬たりうるかどうかは、伯楽次第。われわれはアレサという稀有のシンガーが登場してきたことを喜ぶとともに、彼女を真のレディ・ソウルに育て上げたウェクスラーの仕事ぶりに、感謝せねばなるまい。

若き日のアレサ・フランクリンの歌声。登場時にして、すでに一級品の風格があります。必聴。

この曲を聴く

2013年2月10日(日)

#254 ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンス「Manic Depression」(Are You Experienced?/MCA)

ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスのデビュー・アルバムより。ヘンドリックスの作品。チャス・チャンドラーによるプロデュース。

ジミヘンの記念すべきファーストとして余りに有名だが、デビュー盤にして、既に超一級の貫禄さえ漂わせた、完成度の高い一枚である。

ローリング・ストーン誌の選んだアルバム500でも、堂々の15位。黒人のロック・ミュージシャンとしては最高位を獲得している。

オリジナル盤では11曲を収録。その中では「Foxy Lady」に続く2曲目にあたるのが、きょうの一曲である。

ジミ・ヘンドリックスは、アメリカ人ながらイギリスに渡って本格デビューしたという異例の経歴の持ち主だ。母国にいてバンドを率いていた頃はさほど売れなかったが、元アニマルズのチャス・チャンドラーにその卓越した才能を見出され、渡英を要請される。

66年にシングル「Hey Joe」でデビュー、翌年このアルバムが大ヒットして一躍時の人となる。ビートルズの「サージェント〜」に阻まれて1位こそ逃したものの、全英2位・全米5位と、そのサウンドで全世界に衝撃を与えたのである。まさに「ジミ・ヘンドリックス体験(エクスペリエンス)」とよぶにふさわしい、未知との遭遇であった。

「Manic Depression」も、ジミ・ヘンドリックスならではの、斬新なサウンドのショーケースだ。

楽曲の進行はブルースをベースにしながらも、一聴、とてもブルースとは思えない新しい音である。

ブルースにはまず使われない変拍子、複雑なリフ、意表をついたフレーズを使い、明らかに別のジャンルの音楽を創造している。それをロックとよんでもいいだろうし、ファンクとよんでもいいだろうが、また違う新たな呼称でよんでもいい。とにかく、ヘンドリックス自身のオリジナルなアイデアが全編に溢れ出しているのだ。

ふたりの白人ミュージシャンをバックに従えた彼は、白人をメインのマーケットにして成功を収めた最初の黒人ロッカーといえる。自らは黒人でありながら、ターゲットはあくまでも白人。当然、そのほうが、同胞の黒人を相手に商売するより、何倍もカネになる。

これが、ハウリン・ウルフのような先輩黒人ブルースマンから見れば、「白人と結託して金稼ぎをしてるヤな野郎」に見えたようで、実際、ウルフに絡まれたこともあるらしい。で、根が真面目で紳士的なヘンドリックスはその罵倒にも黙って耐えていたそうだ。

それでも、ウルフにしたところで、クラプトンをはじめとする白人ロッカーたちが黒人ブルースマンを後押しし、盛り立ててくれていることは意識せざるをえず、数年後には「ロンドン・セッション」でクラプトンらと共演していたりする。既にその時代、黒人ブルースにおいても、白人マーケットを無視することが出来なくなっていたのだ。

その意味でも、ヘンドリックスはまさにパイオニアだった。わざわざ単身大西洋を渡ってイギリスに乗り込み、ブリティッシュ・インベイジョンのお返しをやってのけたのだから。

そして、逆輸入するかたちで、本国アメリカでも大人気となった。究極の英米間のコラボレーション、それが「ジミ・ヘンドリックス体験」ということになるね。

筆者はヘンドリックスの曲を聴くたび、いつも「藍より青し」の言葉を思い出す。そう、中国の諺「青は藍より出でて藍より青し」である。

ヘンドリックスの音楽の出発点はいうまでもなく黒人のブルースだが、彼はそれにとどまることなく、自分自身のアイデアを音楽に盛り込んでいった結果、ブルース以上にリスナーを魅了する音楽を生み出した。まさに「BLUER THAN BLUES」なのである。ギターの腕前ばかり語られがちな彼ではあるが、その作曲や編曲の能力も人並みはずれたものがある。

ブルースを越えてしまったブルースマン、ジミ・ヘンドリックス。アグレッシブなギターと、ワイルドな歌声。これに人生を大きく変えられてしまった若者が、どれだけいたことだろう。

いまだに、聴き直すたびに目からウロコの体験が味わえるのも、ヘンドリックスならではのこと。貴方もぜひ、再体験を!

この曲を聴く

2013年2月17日(日)

#255 レッド・ツェッぺリン「We're Gonna Groove」(Coda/Swan Song)

レッド・ツェッぺリン解散後、82年にリリースされた未発表音源集より。ベン・E・キング、ジェイムズ・バーサの作品。

このアルバムについては筆者自身、9年ほど前に「一日一枚」でも取り上げているのだが、きょうの一曲についてどうしても書きたくなったので、再度ピックアップ。

ツェッぺリンは各アルバムのレコーディングには、LPに収録可能な曲より少し多めに候補曲を準備していたが、この「We're Gonna Groove」もそのひとつだった。69年夏、彼らのセカンド・アルバムのレコーディング時には既に用意されていたようだが、後にサードに入る「Since I've Been Loving You」と同様、実際にはレコーディングに至らなかった。

セカンドアルバム発売後の、70年1月にようやく録音。しかし、結局、サード・アルバムにも収録されることはなかった。

が、それはツェッぺリンのメンバーたちが、この曲を気に入ってなかったからではない。むしろ逆で、70年1月から4月までは、ライブのオープニング曲として常に演奏されていた。その頃のライブを聴いた、あるいはブートレッグを持っているZEPファンには、おなじみの曲だったのである。

その後、サード・アルバムのレコーディングに入ったあたりから、皆さんご存じの「Immigrant Song」が、この曲にとってかわってオープニング曲となる。

というわけで、この「We're Gonna Groove」は「幻のライブ定番曲」として長らくブートでの演奏のみが知られていたのだ。

12年の歳月を経て、この曲はようやく日の目を見ることになる。未発表曲/アウトテイク集のトップを飾るかたちで。

70年頃よりこの曲を知り、愛好してきたファンにとっては、なんともいえぬ感慨があったのではなかろうか。

さてこの曲は、冒頭にも記したように、往年の人気R&Bシンガー、べン・E・キングのナンバーだ。

先だっても「Young Boy Blues」を取り上げたキングだが、日本ではどうしても、ドリフターズ時代や「Stand By Me」の大ヒットのイメージがつきまといがちの人で、「メロディアスなバラードを得意とするシンガー」ということになっている。

もちろんそれも間違いではないが、キングはそれにとどまらない、結構引き出しの多いシンガーで、ジャズィな曲、ファンキーな曲も得意としていた。

「We're Gonna Groove」も、そういうキングの多面性を示す一曲であり、そこにはおなじみのバラード・シンガーの面影はない。

この曲は63年のオムニバスライブ盤「Apollo Saturday Night」でのライブが特に有名なので、それを聴いていただこう。アルバムタイトル通り、ニューヨーク・ハーレムのアポロ・シアターでの録音で、6組の人気アーティストが登場する。

キングによる「We're Gonna Groove」のオリジナルは「Groovin'」というタイトル。ホーンセクションも含むバンドを従えたその演奏は、歌のメロディこそ同じものの、サウンドはかなりZEPと違って聴こえる。

一番違うのは、ギターのカッティング、そしてドラムのビートだろう。年代による録音技術の進歩を割り引いて聴いてみても、グルーヴがまったく別のものになっている。7年という、実年数以上の隔たりが、そこにはある。

「Groovin'」という曲はあくまでも素材に過ぎず、ZEPの4人は「We're Gonna Groove」というまったく新しい曲をそこに創出したといっていい。タイトルを変えたのも(ラスカルズの「Groovin'」と混同されないようにという配慮もあるのだろうが)、これは別の曲ですよという主張なのだと思う。

ZEPはいわゆるハードロック/ヘビーメタルのパイオニアというふうに言われるバンドではあるが、そのサウンドはむしろソウル・ミュージック、殊にサザン・ソウルの流れを濃く引き継いでいる。筆者に言わせると「ホーンを使わないサザン・ソウル」であるとすら思う。たとえば、「Celebration Day」のサビとか、モロにそうではないだろうか。

ベン・E・キングのレパートリーとしてはどちらかといえば傍流で、ハードで辛口な「Groovin'」をチョイスしたZEPのセンスには、唸らざるをえない。

プラントの高音ボーカルは、まだ喉に変調をきたしていなかった頃で、絶好調。ペイジのリズムギターも切れ味抜群だし、ジョーンズのタイトなベース、ボーナムのドラムスの暴れ具合、いずれも全盛期のパワーの凄まじさを十分に感じさせるものだ。

アメリカの白人たちの絶大な支持を得てトップに躍り出たZEPだったが、彼らがロックとして聴いていたそのサウンドは、ブラック・ミュージック、とくにサザン・ソウルなしには誕生しえなかったものであった。白人たちはZEPのいざないによって、知らず知らずのうちに、もっともディープな音楽の洗礼を受けていたのだと言える。

エルヴィス・プレスリーが黒人ブルースなしに彼の音楽を生み出しえなかったように、ZEPもまた、ソウル・ミュージックの申し子なのだ。

先達ベン・E・キングへの深い敬意、そしてZEPなりの大いなるオリジナリティをこのふたつの音源から感じとってほしい。

この曲を聴く

ベン・E・キングによるオリジナル「Groovin'」を聴く

2013年2月24日(日)

#256 ビッグ・ジョー・ターナー「Shake, Rattle and Roll」(The Very Best of Big Joe Turner/Rhino)

ビッグ・ジョー・ターナー、54年の大ヒット。チャールズ・キャルフーン(ジェシー・ストーン)の作品。

ビッグ・ジョー・ターナーを取り上げるのは三回目だが、やはりこの一曲ははずせまい。彼の最大のヒット曲であり、もっとも他のアーティストにカバーされた曲であり、ロック史上に残る名曲のひとつだからである。

この曲を発表した当時、ターナーは42歳。前年、自作の「Honey Hush」(以前、フォガットのカバー版を取り上げた、あの曲である)をスマッシュ・ヒットさせた彼が、その勢いに乗って出したのがこの「Shake, Rattle and Roll」。「Honey Hush」を大きく上回るヒットとなり、ビルボードのR&Bチャートで3週連続1位、総合チャートにも22位まで食い込んだ。

このヒットのおかげで、ターナーは40代にして、10代向けの芸能雑誌の表紙まで飾る人気スターとなったのだった。同年にはビル・ヘイリー&ヒズ・コメッツがカバーして、オリジナル以上にヒット。56年にはエルヴィス・プレスリーも取り上げている。

ジャズ・シンガーとしては鳴かず飛ばず状態だったターナーの、シャウターとしてのセンスを見抜き、彼を遅咲きロックンローラーとして再生させようとした、アトランティックの敏腕プロデューサー、ジェリー・ウェクスラー、アーメット・アーティガンの仕掛けは見事に成功したのである。

そして、この「Shake, Rattle and Roll」は、ロックンロール・スタンダードの地位を不動のものとした。

ところで、「Shake, Rattle and Roll」にせよ、「Honey Hush」にせよ、ロックンロール・ソングの魅力というものは、そのビートと同じくらい、歌詞に負うところが大きい。建前重視のオトナたちへのアンチテーゼとして、若者たちの普段着の言葉によって紡ぎ出されるホンネ。これなのである。

「Shake, Rattle and Roll」も結構きわどい性的な比喩が盛り込まれたナンバーだ。これをいちいち対訳で説明するのは野暮の骨頂なので、興味のある人はこのサイトで歌詞を確認してみてほしい。妙な直訳がついてるのは、まあご愛嬌ということで(笑)。

とにかく、ターナーの抜群のリズム感、言葉の歯切れのよさが、この曲の魅力を最大限に引き出している。

いってみれば、ターナーはロックンロールのシャウト唱法を確立したシンガーだ。ジャズから得たアドリブのセンスを生かして、ロックンロールという音楽にビビッドな魅力を与えたのである。

加えて、バック・サウンドもご機嫌だ。ころがるようなピアノのフレーズ、厚みのあるホーン・サウンド、そして賑やかしのコーラス。まさに気分がハイになる曲だ。中盤のサム・テイラー(ムード・ミュージックで日本でも有名なあの人ね)によるテナー・サックス・ソロもイカしている。

どう聴いても、ヒットしないわけがない、完成度の高い一曲。後続のアーティストへは、売り上げ枚数以上に大きな影響を与えている。いま一度、この完全無欠の名曲をチェックしてみて欲しい。

この曲を聴く

2013年3月3日(日)

#257 リック・デリンジャー「Beyond The Universe」(Rock And Roll Hoochie Koo: The Best Of Rick Derringer/Sony Records)

リック・デリンジャー、96年リリースのベスト盤より。彼自身の作品。

リック・デリンジャーは、47年オハイオ州フォートリカバリー生まれ。マッコイズを結成、65年の「ハング・オン・スルーピー」がスマッシュヒット、一躍注目を集めるようになる。

その達者なギターの腕前を見込まれ、ジョニー&エドガー・ウィンター兄弟とも共演。一方ではソロで「ロックンロール・フーチー・クー」のヒットを放つなど、70年代は目覚ましい活躍を見せる。76年には自身のバンド、デリンジャーも結成し、ライブでの圧倒的なパフォーマンスが話題となってブレイク。本格的なギタープレイだけでなく、中性的な美形という彼のルックスも大人気の理由だった。

筆者も大学時代にデリンジャーのタイトな音を聴いて、「これぞハードロックバンドの鑑!」と気に入ったものだ。

そんな彼もおん年65歳。一時のミーハーな人気こそ終息したものの、いまだに現役ロッカーとして、おもにブルースを演奏し続けているようだ。

きょうは彼の全盛期、70年代の音源を厳選したベスト盤のラスト、デリンジャーのデビュー・アルバムにも収録されていた「Beyond The Universe(宇宙へ飛び出せ)」を聴いていただこう。

前のめりに疾走する激しいビート、頻繁なテンポ・チェンジ、複雑なリフとボーカルのユニゾンなど、エッジの立ったサウンドが全面的に展開するチューンだ。

そしてなにより、デリンジャー自身のワイルドなシャウトが、このホットな曲にマッチしている。

後半はデリンジャーともうひとりのギタリスト、ダニー・ジョンスンとの互角のギターバトルが、強烈な印象を与えてくれる。ライブではこれがさらに長尺で展開されるのだ。

ハードロックにも、個々のバンドによって微妙な違いがあるが、デリンジャーというバンドはブルースというルーツを色濃く残しつつ、ビートにおいては常に最新のものを追求していくという姿勢がはっきりと見られる。

つまり、原点を常に忘れず、しかしその一方で進化し続ける、それがデリンジャー・サウンドなのだ。

バンド・デリンジャーとしては結局数年の活動で終わってしまったが、彼らの後続バンドへの影響は意外と大きい。

たとえば、ヴァン・ヘイレン。彼らはデリンジャーに少し遅れて78年に「You Really Got Me」でデビューしたが、その曲はデリンジャーのライブでの定番曲だった。「You Really〜」をハードロック化したのは、デリンジャーがご本家だったのだ。このように、デリンジャーは次世代ハードロックバンドたちに、さまざまな遺伝子を残して消えていった。

きょうの一曲では、ツインギターもさることながら、スピーディで的確なドラムプレイが本当にスゴい。神プレイといってもいい。作曲者リック・デリンジャーの制作意図は、このドラマー、ヴィニー・アピス(カーマインの実弟)にして初めて実現できたといえそうだ。

短期間ではあったが実に見事な作品群を残したこのバンドの、記念碑的な一曲。シンガー、ギタリスト、プロデューサーとしてのリック・デリンジャーの、たぐいまれなる才能が凝縮されてます。ぜひ味わってみて。

この曲を聴く

2013年3月10日(日)

#258 T・レックス「Get It On (Bang The Gong)」(Electroc Warrior/Rhino)

T・レックス、71年リリースのセカンド・アルバムより。マーク・ボランの作品。

T・レックスは67年結成、68年レコード・デビュー。当初はマーク・ボランとスティーブ・トゥック(Perc.)のコンビで「Tyrannosaurus Rex」と名乗っており、アコースティック色が強かったが、70年にトゥックからミッキー・フィンに交代、エレクトリック・ギターを導入、バンド名もT・レックスと改めた。

このリニューアルが見事成功、彼らは一躍トップ・バンドへの道を歩み始める。

で、71年に放ったこの「Get It On」のヒットで、その人気を不動のものとした。

そして、同時期にブレイクしたデイヴィッド・ボウイ、モット・ザ・フープルなどとともに、グラム・ロックと呼ばれる新しいカテゴリーのロックを創り出したのである。

当時筆者は、中学2年になったあたり。まだ自分ではギターを弾いたり、歌ったりはしていなかったが、ロックにはすでにハマっており、FMの番組をエアチェックするのが習慣になっていた。

DJ神太郎さんの音楽番組(東芝EMIのロックを専らかけていた)でこの曲を初めて聴いたときは、彼らの以前のヒット(「Ride A White Swan」「Hot Love」など)にはない、ハードでヘビーなグルーヴを感じ、さっそく熱烈なファンとなったものだ。邦題「電気の武者」というアルバムはこの曲同様、日本でも大ヒットとなった。

まずは、彼らが英国のTV番組に出演したときの映像で、この曲を観賞していただこう。

すぐに気がつくと思うが、エルトン・ジョン(すでにブレイクしていた)をピアノに迎えての5人編成のライブ(まあ、口パク、あてぶりってヤツだが)である。

当時の日本では、洋楽の情報はなかなか伝わってこず、アルバムのクレジットになかったこともあって、このピアノが誰であるかはずっと知られずにいた。

で、後年わかったことだが、実はイエスのリック・ウェイクマンが弾いていたそうなんである。

プログレの雄であるウェイクマンが、こんなオーソドックスなR&Bっぽい演奏をしていたなんて、ちょっと意外だよね。

むしろ、エルトンが弾いていたというほうが、しっくり来ると思うのは、筆者だけじゃないだろう。エルトンはニール・セダカやジョン・レノンなどともコラボするなど、非常にフットワークの軽いひとであったしね。

でも、事実はウェイクマンが正解のようなのだ。な〜んか、不思議な感じ。

したがって、今回の映像中のピアノの音は、エルトンの演奏ではないのだ。ご注意を。

さて、この曲のカッコよさは、なんといってもノリがよく、踊りやすいところだろう。演奏スタイルはごくごくオーソドックスなブギで、特に変わったこと、難しいことをしているわけじゃないのだが、抜群にノリがいいのである。特にベースラインが。

弾いているのは71年に正式メンバーとなるスティーヴ・カーリー。ホント、聴いていると自然と体が動いてくるのだ。

あとは、テナーサックスのイアン・マクドナルド(元キング・クリムゾンのひとね)やバック・コーラスが、ファンキーな雰囲気を盛り上げていることも大きいかな。

この曲はのちに、パワー・ステーションが85年にカバーし、ヒットさせている。そのブラックでファンキーなグルーヴが、ロバート・パーマーらの心をつかんだのであろうね。

ブルース、R&Bをベースに、マーク・ボランならではのセンスを加味して作られた、新しいダンス・ミュージック。泥臭いけど、斬新。それがT・レックス・サウンドだと思う。40年以上経っても、ちっとも古びないカッコよさを、この曲に感じ取ってくれ。

この曲を聴く

2013年3月17日(日)

#259 アルバート・キング「Won't Be Hanging Around」(Door To Door/Chess)

アルバート・キング、61年チェスでのレコーディングより。キング自身の作品。

ワタシの敬愛するブルースマンの代表格、アルバート・キングだが、当サイトにおいては、これまであまり取り上げてこなかった。

というのも、本当に好きなミュージシャンについて語ってしまうと、 結局ベタ褒めになってしまい、ほとんどレビューの意味をなさなくなってしまうから、という理由がある。

そういうわけで、キングの曲について書くのは、かな〜り久しぶりである(試しに調べてみたら、5年10か月ぶりだった)。

アルバート・キング、本名アルバート・ネルスンは1923年、ミシシッピ州インディアノーラ生まれ。

5歳のころ離婚をした母とともにアーカンソー州フォレストシティに移り、学校にも通わずに綿花畑で農夫として働いていた。

カントリーブルースのミュージシャンに影響を受け、ギターを独学で習得、演奏活動を始めるようになる。

本格的なプロへの道を歩み出したのは、50年。オセオラという街のクラブ経営者M.C.リーダーと知り合い、ハウスバンドへ加入したのだ。

その後、インディアナ州ゲイリーへ移り、ジミー・リードとジョン・ブリムの双頭バンドにドラマーとして参加。アルバート・キングという芸名もこの頃名乗るようになる。

この「キング」はいうまでもなく、すでにスターだったB・B・キングにあやかったものだ。

同地で53年にはウィリー・ディクスンと知り合い、5曲だけだがパロットでレコーディングをする機会を得る。シングルが1枚リリースされたものの、これは特にヒットすることはなかった。

オセオラに戻って2年間の活動後、セントルイスへ。ここでようやく人気が出てくるとともに、キングならではの歌やギターのスタイルが確立されてくる。当時発売されたばかりのフライングVを入手、BBのルシールのむこうを張ってルーシーと命名、彼のトレードマークともなるのである。

59年よりボビンにて8枚のシングルをリリース、中にはR&Bチャートでトップ20入りした曲もある。

61年にはチェスとレコーディング。53年のボビンでの録音と合わせて、69年にオーティス・ラッシュとのコンピ盤「Door To Door」というかたちで発表されることになる。

きょうの一曲、「Won't Be Hanging Around」は、その61年の録音からだ。

メンバーはキングの他、ウィルバー・トンプスン(トランペット)、ハル・ホワイト(テナーサックス)、フレディ・ロビネット(バリトンサックス)、サム・ウォーレス(ピアノ)、リー・オーティス(ベース)、ジオティス・モーガン(ドラムス)。いずれもセントルイスでのバンドの面々である。

3分足らず、いわゆるEPサイズのコンパクトな曲なのだが、筆者的には「これぞブルース!」と銘打ちたくなってしまう魅力に満ちているのだよ、これが。

ブレイクからいきなり始まるという、ちょっと変則的な構成のスローブルースなのだが、この出だしのインパクトがスゴい。キングの重量級のボーカルと分厚いホーンが「ドーン!」((C)藤子不二雄A)とリスナーを襲う。まさに出オチ(笑)。

出会いがしらに魂を抜き取られるような、そんな感じがするね。

2コーラス目もブレイクから始まり、これまた強力無比。ダメ押しは、キングのお家芸、派手なスクウィーズ・ギター・ソロ。これがまた、黄金のワンパターンで、しかも超絶気持ちイイ。

たったの4コーラスなのに、この充実度。もう、脱帽するしかないですな。

歌詞のほうはといえば、もうお約束のハートブレイク・ストーリー。ストレートに失恋の痛みを訴えてきて、もう、胸が苦しくなるくらい。

ヒット曲にこそならなかったものの、ブルースの一典型として、ずっと後代に残る、そんな隠れ名曲だと筆者的には思っとります。

嗚呼、結局、惧れていた通りベタ褒めになってしまった(汗)。

でもいいのだ。この曲はその評価に見合うだけのものを持っているから。

キング・オブ・ブルースギター、アルバート・キング37歳の渾身のプレイを聴くべし。

この曲を聴く

2013年3月24日(日)

#260 スティーリー・ダン「Rikki Don't Lose That Number」(Pretzel Logic/MCA)

スティーリー・ダン、74年リリースのサード・アルバムより。ドナルド・フェイゲン、ウォルター・ベッカーの作品。

スティーリー・ダンは現在に至るまで活動を続けているフェイゲン、ベッカーのユニットだが、結成当時はバンドとして活動していた。

ふたりは元々ニューヨークの音楽学校で知り合い、作曲家を志していたが売れず、バックミュージシャンで食べていたのだが、プロデューサー、ゲイリー・カッツに見出されてロサンゼルスでバンド・デビューししたのだ。メンバーはそのふたりの他にジェフ・バクスター(g)。デニー・ダイアス(g)、ジム・ホッダー(ds)らがいた。

デビュー・シングル「Do It Again」が全米6位の大ヒットとなり、いきなり表舞台へ躍り出た彼らは、一作一作ごとに斬新なサウンド、独自のシニカルな歌詞で注目を浴び続けることになる。

レコーディングと並行して、ライブ演奏も行ってはいたが、フェイゲン=ベッカーは必ずしもそれを好まず、彼らの目標はあくまでも完璧なスタジオ録音盤を制作することにあった。

次第に彼ら以外のメンバーとのズレが表面化し、バンドは崩壊することになる。サード・アルバムのリリース後、バクスター、ホッダーが解雇される。以後、スティーリー・ダンはバンドではなく、ふたりのユニットとして、他のミュージシャンを自由自在に起用して、アルバムを制作していくことになる。

そして、77年の「彩(Aja)」、80年の「ガウチョ」でピークを極めた後、いったん活動を休止することになる。それは、あまりに完璧主義が高じた結果といえなくもない。そのくらい、彼らのサウンドは一分の隙もなく構成されていたのである。

ロックバンドといえば、ラフでワイルドで汗の匂いがする、というのが通り相場だったが、彼らはそのパブリック・イメージに反して、インテリで汗の匂わないクールネスな世界を創り上げたのである。

もともとロックよりもジャズを好むインテリ学生だったフェイゲン=ベッカーならではの、新時代のロック、それがスティーリー・ダンだったのだ。

さて、きょうの一曲、邦題「リキの電話番号」は聴くひとが聴けば必ずニヤリ、とするであろう一曲。

奇妙なSE(?)に続いてのイントロ。このピアノで弾かれる印象的なリフは、モダンジャズのピアニスト、ホレス・シルヴァーのアルバム「Song For My Father」(Bluenote ST-84185)に収められたタイトル・チューンから、そっくり借用したものなのだ。

あまりに堂々としているので、パクりというより、むしろ引用、本歌取りといったほうがいいような気がする。

アート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズにも在籍したことのあるファンキー・ジャズの雄、ホレス・シルヴァー。50〜60年代には日本でも人気が高く、何度も来日を経験している。

もちろん、スティーリー・ダンのファンの大半は、シルヴァーのこともファンキー・ジャズも知らなかったろうが、この独特のファンキーなリズムに、従来のロックにない、新鮮な感動を覚えたのであり、当時高校2年の筆者もそのひとりであった。

筆者が「リキ」を初めて聴いた頃は「Song For My Father」のアルバムは持っておらず、数年後、ネタ元の曲に触れて、「なるほど」と笑みをうかべたものである。

原曲も非常に魅力的なファンキー・ジャズの佳曲なのだが、それを大胆にアレンジした「リキ」もまた、見事なポピュラーソングになっている。

とりわけ、当時ポコ、後にイーグルスのティモシー・シュミットも参加したコーラスワーク、バクスターとディーン・パークスの2本のカラフルなギター・サウンドが、非ジャズ的な味付けとなり、この曲に多面体的な魅力を与えているように思う。

ノリとか勢いだけじゃない、精緻なロック・サウンドもあることを、スティーリー・ダンは初めて教えてくれたのだ。

凝りに凝ったサウンドの万華鏡を、とくと味わっとくれ。

この曲を聴く

2013年3月31日(日)

#261 リッチー・サンボラ「The Wind Cries Mary」(Original Soundtrack Recording The Adventure Of Ford Fairlane/Elektra)

アメリカのハードロックバンド、ボン・ジョヴィのギタリスト、リッチー・サンボラのソロデビュー曲。ジミ・ヘンドリクスの作品のカバー。

リッチー・サンボラは59年、ニュージャージー州ウッドブリッジの生まれ。ヘンドリクスに強い影響を受けて、14才からギターを始める。

ジョン・ボン・ジョヴィを中心としたバンド、ボン・ジョヴィに加入、84年レコードデビュー。86年リリースのサードアルバムで全米的にブレイク。以後、アメリカのトップ・バンドのひとつとして、30年近く活動を続けている。

サンボラはリードギターのほか、各種弦楽器、キーボード等を担当。フロントはあくまでもジョンに任せてバッキングに徹しているが、歌もOKで、バックコーラスでそのワイルドな歌声を聴くことが出来る。

そんなサンボラが初めてソロで歌ったのが、この「The Wind Cries Mary(風の中のマリー)」だ。きっかけは、90年公開の20世紀フォックス映画「フォード・フェアレーンの冒険」の挿入曲を依頼されたことである。サンボラはそこで、自分が一番影響を受けたヘンドリクスのカバーをやったのである。

「The Wind Cries Mary」は先日取り上げた「Manic Depression」が収録されているアルバム、「Are You Experienced?」で聴くことが出来るナンバー。

ヘンドリクスの曲としてはもっとも静かな雰囲気をもつといえる、3分半ほどの短いナンバーを、サンボラがどう料理しているかというと・・。

冒頭はヘンドリクス同様、静かなコードワークと、低く、つぶやくような歌声で始まる。

だが、コーラスが進むに連れ、次第にサンボラのテンションは高まっていく。

そして、激しいギターソロへ突入。そのパッションをストラトキャスターにぶつけるようにして、かき鳴らす。

歌に戻り、見事なまでのシャウトを聴かせて、再度のギターソロへ。ここからがまさに圧巻で、聴いてすぐにわかるように「Hey Joe」のコード進行やリフを引用して、延々と展開される狂熱のソロ。スゴいのひとことだ。

この間、6分ジャスト。怒濤のごとき一曲が終わっても、興奮はさめやらない。メリハリあるアレンジの大勝利だ。

いわば、シンガーとして、ギタリストとして、アレンジャーとして持てるもの全てを、サンボラはこの一曲に叩きこんだといっていいだろう。

サンボラはその後、この曲が呼び水となったのであろうか、翌91年にはファーストソロアルバム「Stranger In This Town」を制作、リリースしている。

そのアルバムにはボン・ジョヴィのメンバーのほか、エリック・クラプトンもゲストで参加している。ECは、サンボラにとってヘンドリクスと並ぶヒーロー・ギタリストで、サンボラの強い要請により「Mr. Bluesman」という曲での共演が実現したのだった。

「ポップなハードロック」というイメージのあるボン・ジョヴィではあるが、その中ではサンボラはブルース指向が強いのだということがよくわかる。実際、ボン・ジョヴィではやらないタイプのブルーズィなサウンドを、その「Stranger In This Town」ではメインにしている。

サンボラも今年で54才。すでにオヤジ世代だが、筆者などともほぼ同時期に音楽にハマった元ロック少年といえよう。14才でギターを弾き始めたあたりとか、とても親しみが湧いてくる。

ECやジミヘンを初めて聴いたときの衝撃を忘れず、彼らへのリスペクトをストレートに音楽で表現する。ECがBB、マディやウルフらをカバーしたのと同様、自分に音楽の魅力を教えてくれた「父親」への敬意がそこにはあるのだ。これっていいよね。

この「The Wind Cries Mary」は、日本盤の「Stranger In This Town」にはボーナストラックで入っているので、ぜひチェックしてみてほしい。

この曲を聴く

2013年4月7日(日)

#262 ザ・ミーターズ「Come Together」(The Meters Jam/Rounder)

アメリカのR&Bバンド、ザ・ミーターズ、92年リリースのコンピレーション・アルバムより。レノン=マッカートニーの作品。

ミーターズは自分たちのオリジナルだけでなく、白人黒人を問わずさまざまなジャンルのアーティストのカバーをやっているが、これもその一例。

ビートルズの最終期を代表するヒットシングルであり、実質的なラストアルバム「アビイ・ロード」のトップに収められた曲でもある。

実際に作曲したのはジョン・レノンで、彼はこの曲を自作の中でも最も気に入っていると語っていた。カバーしたアーティストもエアロスミス、アイク&ティナ、プリンス、エルトン・ジョンなど多数にのぼる。

「Come Together」は他にもいろいろと、いわく因縁の多い曲で、チャック・ベリーの56年のヒット曲「You Can't Catch Me」とメロディライン、そして歌詞の一部がそっくりだということで、ベリーの楽曲の著作権をもつモリス・レヴィから訴えられたという逸話がある。

結局、レノンのアルバム「心の壁、愛の橋」「ロックンロール」にベリーの作品や、レヴィが権利を持つリー・ドーシーの曲を入れるということで裁判は解決する。

そんなに二曲は酷似しているのかと、今回、筆者は聴き比べをしてみたのだが、たしかにAメロと呼ばれる部分のメロディは、ほぼそのまま借用しているといっていい。だが、テンポはまるで違っていて、アップテンポの「You Can't Catch Me」に対し、「Come Together」はややスロー。サビも前者は明るいノリなのに、後者は暗めでブルーズィと、対照的。メロディこそ似ていても、雰囲気はまるで違うのである。

ま、歌詞まで拝借しちゃっているので、「クロ」と判定されるのは仕方ないんだけどね(笑)。

リスナーにとってはレノンのいろいろなカバーが聴けてありがたい、一番平和な解決策だったので結果オーライともいえますが。

さて、本題のミーターズ・バージョンについて、である。

「The Meters Jam」は未発表音源やアウトテイクを集めたタイプのアルバムだが、収録年があまりはっきりしていない曲が多い。68年録音とはっきり書かれた二曲以外は、70年代半ばにレコーディングされたとある。曲によってパーカッションが入ったり、入らなかったりなので、おそらくシリル・ネヴィルが参加した75年前後の録音だと思われる。

この「Come Together」は、4人編成での演奏。レオ・ノセンテリのヘヴィなギター・リフで始まり、他のメンバーの音がそれに重なるようにして始まる。アート・ネヴィルの粘っこい歌をフィーチャーした、ファンク色の極めて濃いサウンドだ。

ビートルズのオリジナルをまったく聴いたことがない人には(そういう人はまずいないだろうし、そういう人がミーターズだけは聴くというのも変だけど)、白人のロックバンドの作曲とは絶対思えないんじゃなかろうか。

そのくらい、この曲には、まっくろけな「黒さ」がある。

筆者自身も、みのもんたサンのラジオ番組のテーマで何十回、何百回となくこの曲を聴いていたわけだが、ビートルズ=ポップというイメージが一般的な中で、なんだかこの曲だけは違うよな、と思っていた。初期の彼らには、黒人のR&Bのカバーもけっこう多かったが、それでさえ、ビートルズ風に白人化、リファインされたものになっていたが、「Come Together」はオリジナルなのに、最もブラックな匂いがしたのである。

それはやはり、下敷きにしたチャック・ベリーの曲の中にある、ブラックネスから来ているものではないだろうか。

歌詞はかなり難解で、日本語に訳することは難しいといわれるし、いろんな意味でポップネスとは対極にあるナンバー。

だが、ビートルズというトップバンドの人気が、フツーだったらヒットしそうにないこの曲をナンバーワンヒットにまで押し上げた。スーパースターは何をやってもウケる、そういうことなんだろうね。

ミーターズは「Come Together」という「やや黒め」の素材を、さらに黒人ならではのコテコテのアレンジを加えて、極上ファンク・チューンに料理している。さすがの腕前だ。ことに終盤はオリジナルのようなリフレイン〜フェイドアウトでなく、アカペラで締めくくったのが実にイカしている。

ミーターズ版「Come Together」、そのヘヴィでファンクなノリを堪能してほしい。

この曲を聴く

2013年4月14日(日)

#263 マーヴィン・ゲイ&タミー・テレル「You're All I Need to Get By」(Greatst Hits/Motown)

ソウル・シンガー、マーヴィン・ゲイとタミー・テレルのデュエット・ナンバー。ニコラス・アシュフォード、ヴァレリー・シンプスンの作品。

マーヴィン・ゲイについては説明不要だろうが、彼が60年代後半、男女のデュエットで活動、ヒットを数多く出していたことを知る人は、あまりいないような気がする。

デュエットのお相手はフィラデルフィア出身のタミー・テレル。39年生まれのゲイより6才年下の女性シンガーだった。

彼女は歌が抜群に上手いのみならず、その美貌で少女の頃より注目を集めていたのだが、美しく生まれつくということは、必ずしも幸せなことばかりではない。

10代の初め頃、近所の少年たちに暴行を受けたことが、その後の彼女の人生に大きな影を落して行く。

15才になる直前に最初のレコード会社、セプター/ワンドと契約。その後ほどなくジェイムズ・ブラウンにスカウトされて、バックシンガー兼愛人となっていたという。JBからはDVを受けており、逃げるように彼の元を去ったというが、そういうエピソードを聴くにつけ、彼女の並はずれた容姿は、幸運と不幸とを合わせて呼び込んでしまうのだなぁとつくづく思う。

モータウンとは65年、20才の誕生日に契約を果たす。社長のベリー・ゴーディ・ジュニアから、本名のモンゴメリーよりもセクシーなイメージを持つ「テレル」に改名するよう依頼される。

モータウンの看板女性歌手、ダイアナ・ロスに匹敵するスター候補、タミー・テレルの誕生である。

当時、今ひとつヒットに恵まれていなかったゲイが相手役となり、「理想の恋人たち」をイメージして、ふたりはデュエットとして組むことになる。

わりと生真面目で内向的なゲイに対し、年下だけどちょっと大胆で小悪魔っぽい魅力を持つテレルのコンビ。この取り合わせの妙が予想以上にウケた。

「Your Precious Love」「If I Could Build My Whole World Around You」「Ain't Nothing Like the Real Thing」「You're All I Need to Get By」のトップ10ヒットを初めとして、何枚ものアルバムがリリースされた。

ソウルの男女デュエットは単発の企画ものとして出されることは多いが、彼らのように何年にもわたってのレギュラー活動で成功を収めたケースはあまりない。いかにふたりの相性がよかったかの証左だろう。

しかし、理想のカップルに見えても、彼らにはそれぞれに別のパートナーがいた。ゲイは既にゴーディの実姉と結婚していたし、テレルはテンプスのデイヴィッド・ラフィンと付き合っていた。ただ、実際には、ゲイは後に離婚することでわかるように、妻とうまくいっていなかったし、ラフィンは妻子がいることを隠して付き合ったのがバレてしまい、テレルになじられ、DV沙汰となっていたようだ。舞台裏にはドロドロとした事情が潜んでいたのだ。

ふたりは完全に疑似カップルだったのだが、私生活がギクシャクしていた分、ふたりがレコーディングするときは、まるでホンモノの恋人たちのように最高に仲睦まじく共演できたのかもしれない。

そのある意味幸福な時期は、長続きしなかった。テレルは持病の頭痛が次第に悪化、67年にはステージ上でゲイと共に歌っているときに倒れてしまう。脳腫瘍であった。その後何度も手術を受けて病いと闘うも、病状が好転することはなった。

それでも彼らはレコーディングは続け、きょうの一曲「You're All I Need to Get By」のような、気迫に満ちたデュエットの名曲を創り出したのだから、その気力には頭が下がる。

そして70年3月16日、テレルはこの世を去る。24才の若さだった。ゲイはそのショックからなかなか立ち直れず、1年半もの間、音楽活動を休止することになる。

あまりにもドラマティック、あまりにも悲しいエピソードだが、しかし、復帰後のゲイの、人が変わったかのようにアクティブな活躍ぶりを見るに、テレルとの何年間かの日々が、彼に実に大きな自信を与えたのだなと感じさせる。

夭折したデュエット・パートナー、タミー・テレルの分まで生き続け、音楽をやり抜いていこうという意志が、「What's Going On」を初めとする71年以降の諸作品には、しっかりと読み取れるのだ。

ふたりはついに、現実的な恋人同士にはなりえなかった。が、その魂(ソウル)の結びつきは、どんなカップルよりも強いものであったと思う。

タミー・テレルがマーヴィン・ゲイに残した最大の遺産(ギフト)とは、そういったパワーであり、インスピレーションであったのだと信じたい。

この曲を聴く

2013年4月21日(日)

#264 トニー・ベネット&レディー・ガガ「The Lady Is A Tramp」(Duets II/Sony Music Entertainment)

今週も、デュエットもので行く。先日朋友・りっきーさんからお借りしたCDを聴いているのだが、これが最高にごきげんな一枚なのである。

大御所トニー・ベネットがベテラン・若手、男女、ジャンルを問わずさまざまなシンガーと、スタンダードナンバーをデュエットするシリーズの第二弾。最初の「Duets」は2006年にリリース。デュエットのお相手はボノ、マイケル・ブーブレ、エルヴィス・コステロ、ディクシー・チックス、ファネス、ビリー・ジョエル、ダイアナ・クラール、k.d.ラング、ジョン・レジェンド、ポール・マッカートニー、ジョージ・マイケル、スティング、バーブラ・ストライザンド、ジェイムス・テイラー、そしてスティーヴィー・ワンダーだった。

この超豪華なゲスト陣は、まさにベネットでなくては到底集められなかった顔ぶれだ。アルバムは当然ながら大ヒット。5年後にこの「Duets II」が制作される運びとなった。

こちらのゲストの顔ぶれも、前作に劣らずスゴい。たとえば、マライア・キャリー、ナタリー・コール、シェリル・クロウ、フェイス・ヒル、ノラ・ジョーンズ、エイミー・ワインハウス、ジョン・メイヤーなどなど。女王・アレサ・フランクリンとの一曲などは、ホント、鳥肌モノの出来なのだ。

で、当アルバムの目玉中の目玉が、トップに収められている、今をときめくレディー・ガガとのデュエットだ。

曲はミュージカル時代の黄金のコンビ、リチャード・ロジャーズとロレンツ・ハートの作品。

37年にブロードウェイ・ミュージカル「青春一座(Babe in Arms)」の挿入曲として書かれたこの曲、2年後にはミッキー・ルーニー、ジュディ・ガーランドの主演により同ミュージカルが映画化されて、さらなる人気を獲得し、カバー・バージョンも多数生まれた。

一番ポピュラーなのはフランク・シナトラによる57年の録音だろうが、その他ジャズ系シンガーによるカバーが多く、アニタ・オデイ、バディ・グレコ、エラ・フィッツジェラルド、そしてこのトニー・ベネットも92年に録音している。

自分的に一番気に入っているのは、バディ・グレコによるライブ・バージョンで、高校生の頃から40年近く愛聴している。グレコのピアノ弾き語りが、実に粋でカッコいいんだな。

この曲は邦題として「気まぐれレディ」あるいは「レディは気まぐれ」などと訳されているが、それでわかるように、自由気ままに生きる都会の女性(たとえるならば「ティファニーで朝食を」のホリー・ゴライトリーのような)を描いた一編なのだ。

そのイメージからおそらく、当代一のフラッパー、レディー・ガガに白羽の矢が立てられたのだろうが、ガガはわれわれの予想を上回る、みごとな歌唱を披露してくれた。

一般的にレディー・ガガに関しては、その奇抜なメイクや衣装やダンス、PVの演出内容といった「けれん」の部分にスポットライトが当たることはあっても、その歌唱力について言及されることは滅多にないのだが、この「The Lady Is A Tramp」を聴くに、彼女が一歌手としても、非常にしっかりとした実力を持っていることがよくわかると思う。幅広い声域、殊に高音部での伸びと張りのある歌声、これはバーブラ・ストライザンドや、ベット・ミドラーにさえひけを取っていない。

彼女を、ただの色キ●ガイな姐ちゃんだと思っていたひと、これを聴いてよく反省しなさい(笑)。

レディー・ガガは、その出自境遇、売り出し方、肉体派路線などから、マドンナと比べられることが多いと思うが、こと歌唱力に関しては、まちがいなくガガの方が上だろう。

つまりこれまでのキワモノじみたスタイルから足を洗って、ノー・ギミックな路線に変更したとしても、十分鑑賞に足りる音楽的才能を持っているのは、ガガ様の方だと思う。

このデュエット音源を、女性歌手の名をふせて聴かせたら、レディー・ガガだと一発で見破れる人は、おそらくそういない、そう思うのだ。

ベネットという老紳士に、奔放なキャラクターで絡む気まぐれレディ、ガガ。当時ベネットは85才だったが、ガガに負けることなく、声が実に若々しいのだ。

ビッグバンドジャズをバックに繰り広げられる、とびきり粋で刺激的な、究極のデュエットをご賞味あれ。

この曲を聴く

2013年4月28日(日)

#265 ロニー・ウッド&ボ・ディドリー「Who Do You Love」(Live At The Ritz/Victory MUsic)

ストーンズのギタリスト、ロニー・ウッドとボ・ディドリーの共演ライブ盤(87年)より。ボ・ディドリーの作品。

このふたりについては説明不要だろう。ロックンロールのパイオニア、ボ・ディドリーと、彼に強い影響を受けたロニー・ウッドの師弟共演である。

きょうの一曲は、そのライブのラストを飾る7分余りの大熱演。ボ・ディドリーのあまたある作品の中でも、とりわけカバーバージョンの多いナンバーだ。

たとえば、ストーンズ、ヤードバーズ、クイックシルバー・メッセンジャー・サービス、グレイトフル・デッド、UFO、ブルース・プロジェクト、ドアーズ、ゴールデン・イアリング、ロニー・ホーキンス&ザ・バンド、ボブ・シーガー、ロリー・ギャラガー、サンタナ、ドアーズ、ジョージ・サラグッド、ファビュラス・サンダーバーズといった具合。60〜70年代のロックバンドは、一度は演奏したことがある、そんなスタンダードなのだ。ボ・ディドリーには他にも「I'm A Man」「Road runner」といった同様の定番曲がいくつもある。

日本では英米と違ってボ・ディドリーの人気は今ひとつなのだが、これらバンドのいずれかのカバーバージョンを聴くことで、彼の存在を知った、なんてリスナーは多そうだ。筆者も、CCRの「Before You Accuse Me」を聴いて以来、彼の名前を覚えたものだ。

さて、異様なまでのハイテンポで演奏されるこの曲のどこに、多くのロックミュージシャンたちを引きつける魅力があったのだろうか。

曲の構成は非常にシンプルだ。ほぼワンコードでひたすらアップテンポ、そして歌詞も単純明快で、後半はずっと「Who Do You Love」の繰り返しに終始。これゆえに、麻薬的とさえいえる強力なグルーヴが生まれているのだ。

そう、メロディの魅力というよりは、ビートの牽引力が、この曲のすべて。

彼が作るジャングル・ビートの曲にしてもそうなのだが、とにかく聴いているだけで体が動き出してしまような、ダンサブルなリズム、これがボ・ディドリー流なのだ。

ワンコードながら爆発的にヒットしたレッド・ツェッぺリンの「胸いっぱいの愛を」などは、この流れで生まれてきたナンバーといえるね。

なお、曲中のドラムスはボ・ディドリーが叩いている。熱唱しながらのパワフルなドラミング、お見事のひとことである。

ボ・ディドリーは2008年に79才で亡くなっているが、晩年まで枯れることなく、トレードマークの四角いギターとともに、生涯ロッカーを貫いた。

オーディエンスを「ノセる」ことにおいて右に出るもののない稀代のロッカーと、その愛弟子。ふたりの生み出す、このうえないビートに打ちのめされてくれ。

この曲を聴く

2013年5月5日(日)

#266 エアロスミス「Never Loved A Girl」(Honkin' On Bobo/Columbia)

エアロスミス、2004年のアルバムより。スティーブン・タイラー、ジョー・ペリー、ジャック・ダグラスによるプロデュース。

タイトルは「Never Loved A Girl」となっているが、一聴してすぐわかるだろう。これはアレサ・フランクリンの67年のヒット曲「I Never Loved A Man(The Way I Love You)」の歌詞を変えたカバーバージョンなんである。

作曲はソングライターのロニー・シャノン。当時フランクリンの夫だったテッド・ホワイトに依頼されて書いた曲である。

邦題は「貴方だけを愛して」。その通り、貴方ほど愛したひとはいない、というディープなラブソングである。原題の前半だけで判断すると、違う意味に誤解しやすいのでご注意を。

R&Bチャートで1位、総合チャートでも9位と大ヒットしたこの曲を、エアロはどのようにカバーしているのか、まずは聴いてみよう。

タイラーの息を吸い込むような叫び声から始まるこの曲、のっけから激しいシャウトの連続だ。バラードにしちゃリキ入れ過ぎちゃいますか、ともいいたくなるけど、いいのだ、これがエアロ流。

オリジナルのバンドメンバー5名に加えて、バックにはわざわざご本家のメンフィス・ホーンまで招んでいる。やはり、オリジナルのあの響きを再現するには彼らしかない、とエアロ側は判断したんだろうね。

ふだんはバリバリのハードロック・スタイルで弾きまくるペリーとウィットフォードも、ここではやけにシブく、ブルーズィなギターを奏でている。あまり目立たないけど、後ろのほうで聴けるピアノはタイラーが弾いていたりする。これもいいアクセントだ。

嘘つきでどうしようもない女だけど、お前ほど愛した女もいない、という切ない気持ちを、カッコつけることなく、ここまで直球一本勝負で聴かせてくれる白人シンガーも、そういないだろう。そう、タイラーも、また稀代のソウル・マンなのだ。

しゃがれた声でわめきまくる彼の歌は、決してキレイなものとはいい難い。ソフィスティケイトされたサウンドを好む人々には、絶対受け入れられないだろう。でも、万人向きの耳ざわりのいい音楽にはない、魂をゆさぶる何かが、このダーティな歌声の中にある。

そう、タイラーの声は、赤子の泣き声にも似た「本能の叫び」なのだな。あたりをはばかることなく、泣きちらすのだ。ゆえに、ある者はこれに怯え避けようとするが、他のある者はその声に自分の本当の情動を見出して、喝采を叫ぶのだ。

いささか乱調でアレサ・フランクリンの歌声のような端正さはないが、リスナーの心をわしづかみにするスティーブン・タイラーのソウル。聴くっきゃないっしょ。

この曲を聴く

2013年5月12日(日)

#267 オリ・ナフタリー・バンド「Happy For Good」

イスラエルのブルースバンド、オリ・ナフタリー・バンドの最新シングル曲。

2012年1月、アルバム「A True Friend (Is Hard to Find)」でメジャーデビュー。10月のイスラエル国内のブルースバンド・コンテストで優勝、オランダでもライブを行い、そしてついに今夏はシカゴ、メンフィスなど7都市でのアメリカツアーも行うという新進気鋭のバンドが、オリ・ナフタリー・バンドだ。

リーダーにしてギタリスト、ソングライター、プロデューサーもつとめるロン毛のイケメンが、弱冠25才のオリ・ナフタリー。そして彼と並ぶ当バンドの看板が、美貌の歌姫エリナー・ツァイグ、26才だ。

女性ブルースシンガーといえば、容姿よりも歌の実力が優先されるあまり、見ばえ的には「?」なひとがひじょうに多いのだが、彼女の場合、天が二物を与えた見事な少数例といえよう。

歌のほうは派手さこそないが、シブめのアルトで説得力もあり、一方、ルックスのほうはブルネットでプロポーション抜群、ことにその脚線美をロングドレスやジーンズやらで隠すことなく、しっかりとミニスカでアピールしているのは、ポイントが高い。ライブでの集客力に直結しそう。

きょうの一曲は今年リリースのセカンドアルバム「Happy For Good」からのシングル・カット。ブルースとはいえ、とてもポジティブな歌詞内容のナンバー。力強いツァイグの歌声、ナフタリーのいかにもブルースなギターリフが印象的だ。

5才にしてギターを始め、10才にしてアメリカの黒人ギタリスト、トニー・パースンに師事し、すでに20年のキャリアがあるというナフタリー。その演奏スタイルは、ブルースを軸にジャズ、ソウル、クラシック、スパニッシュなどさまざまなジャンルをカバーしており、もちろんいまどきのロックのセンスも兼ね備えている。

彼自身は歌わないというところが、いささか残念ではあるが、それを十分補って余りあるテクニックとフィーリングを持ったギタリストだと思う。特にそのメロディアスで哀感に満ちたソロは、日本のリスナーにも人気が出そうだ。その片鱗は、オランダでのライブでうかがうことが出来る(youtube参照)。

これからのブルースの担い手は、非黒人、非アメリカ人からもどんどん出てくることだろう。ことに、英語をネイティブなみにこなすことの出来る国、たとえばこのイスラエルあたりからは、今後が十分期待できそうだ。黒人ブルース原理主義のひとは「こんなの認めない」というかもしれないが、筆者的にはこれもまたブルースの今日的ありかただと思っている、

夏の全米ツアーの評判がよければ、全世界デビューも夢ではない、期待の新バンド。チェックしといて損はないと思うよ。

この曲を聴く

2013年5月19日(日)

#268 フリートウッド・マック「Something Inside Of Me」(English Rose/Epic)

あなたはダニー・カーワンというギタリストのことを、覚えているだろうか。

「ああ、初期のマックにいたねぇ」という返しの出来るひとは、今となっては、ごく少数だろうなという気がする。「神」とさえよばれた偉大なるピーター・グリーンの影に隠れて、ほとんど話題に上ることのない不遇な初期メンバー、カーワン。歴代メンバーの中で、最も影の薄い存在ともいえる。

でも彼は、忘れ去るにはもったいない才能を持ったミュージシャンでもあった。今週は彼にスポットを当ててみたい。

カーワンは50年、英国ブリクストンの生まれ。他のマックのメンバーより、4、5才若い。彼のバンドの演奏をマックのマネージャー、マイク・ヴァーノンが聴き、グリーンらに「すごいヤツがいる」と知らせたのが、マック加入のきっかけだった。ときにカーワン17才。

68年8月に正式加入。以来、72年まで在籍することになる。

それまで指弾きのグリーン、スライドのジェレミー・スペンサーという二人ギタリスト体制から、トリプルギターとなったマック。これによりサウンドにも変化が出てきた。

初期のブルースに凝り固まったゴリゴリのサウンドだけでなく、70年代後半のマックへと引き継がれることになる、ポップな要素も加味されるようになったのだ。

いい例が、カーワンが初めてレコーディングに参加したシングル曲「アルバトロス」。ここではグリーンとカーワンのツインギターによるハーモニーが前面に押し出されている。グリーン自身も「ダニーなしでは、アルバトロスという曲は出せなかった」と後に語っていた。フリートウッド・マックとして、初めてのヒットとなったのは、この曲にほかならない。

そのB面であった「ジグソー・パズル・ブルース」は、もともとジャズのインスト曲で、クラリネットで演奏されていたものを、カーワンがアレンジ。最初はグリーンとのツインギターを試みたのだが、グリーンはうまく演奏出来ず、結局カーワンがひとりで録音したという。

こういったエピソードを聞くにつけ、グリーンも決してオールラウンド・プレイヤーとはいえず、むしろカーワンのほうが、より多くの引き出しを持っていたのではないかと思う。

ギターだけではない。カーワンはソング・ライティング、あるいは歌においても、並々ならぬ才能を持っていた。きょうの一曲、「Something Inside Of Me」が好例だ。

カーワンの作品で、ボーカル、ギターソロも彼がとっている。バックでひかえめに弾かれているオルガンはグリーンが担当。

この曲が、まことに素晴らしい。初期のマックにはオーティス・ラッシュに強い影響を受けたと思われるマイナーブルース路線の曲(たとえば「ブラック・マジック・ウーマン」がそうだ)が多いのだが、「Something Inside Of Me」もまた、マイナーブルースの佳曲といえそうだ。メロディ・ラインが美しく、タメの効いたギター・ソロもまた、申し分のない出来だ。そして歌声も、意外とイケるのである。

カーワンのギターのスタイルは、グリーンのそれにかなり近い、ブルースを基本としたものなので、ときどき二人のプレイは混同されてしまうようだ。スペンサーのように、聴いただけで誰が弾いているかわかるというわけにはいかないのが、悩ましいところだ。

同じようなことはウィッシュボーン・アッシュあたりにもあって、本当に上手いのはアンディ・パウエルのほうなのに、イケメンのテッド・ターナーが弾いていると勘違いされているケースがけっこうあった。

マックにおいて、グリーンがあまりに神格化されてしまったために、カーワンの才能が過小評価されている、あるいはカーワンの手柄までグリーンのものとなっているのは、否めない。まことにお気の毒である。

マックはその後、グリーンはドラッグ中毒、スペンサーはカルト宗教への傾斜により、相次いで脱退することとなる。後を引き継いでフロントに立ったのがカーワンで、その後ロバート(ボブ)・ウェルチや、マクヴィー夫人のクリスティンを加えてバンドを続けていくのだが、思うように売れないことでバンド内の人間関係が悪化、他のメンバーたちから孤立してしまったカーワンは、実質クビの憂き目に遭う。

その後のカーワンは、79年までに3枚のソロ・アルバムを出したものの、特に売れることなく、80年代には完全に業界から姿を消してしまう。ロンドンでホームレス生活を送っていたようである。結婚はしたが、数年で離婚。すべてが負のスパイラルとなってしまった、バンド脱退後の生活。いたましいの一言だ。

しかし、世間は彼のことを完全に忘れたわけではなかった。98年には「ロックンロール・ホール・オブ・フェーム」に殿堂入りしている。やはり、彼の存在は、マックというバンドが大きくなっていく上で不可欠であったことが、わかる人にはわかっていたのである。

ソロ・ボーカリストとして成功するような「華」はないにせよ、そのいぶし銀のようなギター・プレイ、そして見事な作曲能力は、もっと評価されるべきだろう。

フリートウッド・マックの影の立役者、ダニー・カーワンの名前を、きょうの一曲とともに、あなたの記憶に刻み込んでほしい。

マック在籍時に残した、数々のレコーディング、それこそが、彼が一番輝いていた時期のあかしなのだから。

この曲を聴く

2013年5月26日(日)

#269 アナ・ポポビッチ「Can You Stand The Heat」(Can You Stand The Heat/Artistexclusive Records)

今週は現在、もっともイキのいいブルース・ウーマンとよばれている女性シンガー/ギタリストを紹介しよう。76年生まれ、今年37才のアナ・ポポビッチである。

名前でわかるように東欧系で、旧ユーゴスラビア、現在はセルビア共和国の首都ベオグラード生まれ。父親がミュージシャンで、家に友人を招いてジャムセッションをよくやっていたこともあり、幼少からブルース系の音楽になじみ、自然とギターを弾き始めていたという。

19才の頃、自身のバンドHushを結成、ジュニア・ウェルズの渡欧ツアーの前座をつとめたことも。99年にアルバム・デビュー。ドイツやオランダでライブ活動を行ううちに、バーナード・アリスン(ルーサーの息子)と知り合い、彼のつてでRufと契約、アメリカ進出を果たす。その後も順調にアルバム・リリースを続け、2011年の「Unconditional」、そして今年4月リリースの「Can You Stand The Heat」で話題を集めている。

モデルばりに長身で抜群の脚線美、美しいブロンドのウェービー・ヘアをなびかせながら、力強くシャウトし、ばりばりギターを弾きまくるポポビッチは、「もっとも絵になるブルース・ウーマン」として、ブルース界だけでなく、広範囲でリスナーを獲得しつつある。

アメリカではここのところ、ブルース界でもビジュアル系戦略が進み、男性でいえばジョニー・ラング、女性でいえばシャノン・カーフマンのような十代でルックスのいいアーティストをプッシュしていく傾向が目立つが、ブルースはもともとオトナの音楽、あまりに若いアーティストにはその味わいが感じられない、みたいな欠点もあったのだが、その点、ポポビッチは既にオトナの女性の魅力を十分に備えており、ブルース・ウーマンと呼ぶにふさわしいといえるだろう。

前置きはこのへんにして、きょうの一曲を聴いていただこう。最新アルバムのタイトル・チューンだ。

B・B・キングのバンドでドラマーをつとめるトニー・コールマンによるプロデュース。彼をはじめとする黒人ミュージシャンをバックに、メンフィスにて録音。

曲調はブルースというよりもファンクな、アップテンポのナンバー。タイトル通り、ひたすらホットでノリがいい。黒人女性コーラスやホーン・セッションも交えて、ごきげんなファンク・ミュージックに仕上がっている。

中間部では、もちろん、ポポビッチのギターソロも聴ける。レイ・ヴォーンばりのゴリゴリの速弾きに、「えっ、これ女性が弾いてるの?」とビックリ。時代は確実に変わってますぞ。

アルバムの他の曲ではスライドも弾いていたり、各種エフェクターも躊躇なく使うなど、そのプレイは男性ギタリストになんらヒケをとることがないもの。15才にしてプロの仲間入りを果たしただけのことはある。

いっぽう、その歌のほうも、ギターに聴き劣りすることなく、十分に説得力がある。きっぷのいい姐さん、みたいなアルト。でも、女性らしさは失わず、ありがちな「声量で勝負」みたいな巨女シンガー系とは一線を画している。セクシーさはあっても、過剰ではない。ここが大事なところだ。

ミニスカートと、ハード・ドライヴィン・ギター。東欧系白人と、黒人音楽。この、通常はまったく異質に思えるもの同士が、ポポビッチにおいては見事に融合しているのだ。

世間によく登場する美女ロッカーの大半は「なんちゃってギタリスト」に過ぎないのだが、ポポビッチは稀有な例外。歌もギターも、どちらもハンパじゃ聴いてやんない、というワガママなリスナーも、ポポビッチならナットクのはず、である。

貴方は、彼女の熱いプレイに、耐えられるかな? ぜひ挑戦してみてほしい。

この曲を聴く

2013年6月2日(日)

#270 ウォーカー・ブラザーズ「Land Of A Thousand Dances」(Take It Easy With The Walker Brothers/Polygram)

アメリカ出身、英国でブレイクしたブルーアイド・ソウル・グループ、ウォーカー・ブラザーズのヒット・チューン。クリス・ケナー、ファッツ・ドミノの共作。

原題よりもむしろ「ダンス天国」の邦題であまりにも有名なナンバー。日本ではこのウォーカーズと、ウィルスン・ピケットの66年のヒットが知られているせいか、この曲はピケットがオリジナルだと誤解されやすい。

しかし、実はこの曲、もともとはニューオーリンズのR&Bシンガー、クリス・ケナーが62年にリリースしヒットしたものがオリジナルなのだ。

ケナーは29年生まれ。ファッツ・ドミノやアラン・トゥーサンらと組んで活動していた彼の出した最大のヒットは61年の「I Like It Like That」。これは「Something You Got」と改題されて、さまざまなアーティストにカバーされたから、ご存じの人も多いだろう。そして、もっとも多くのフォロワーにカバーされた、息の長いナンバーがこの「ダンス天国」なのだ。

この曲の構造は至ってシンプル。ワンコードで延々とプレイされるスタイルで、聴き手にもっとも強い印象を残しているのは、ウォーカーズでは「ラーラララー」、ピケットでは「ナーナナナー」というハミングコーラスだろう。

しかしですね。オリジナルのケナーのバージョンを聴いてみると、そのハミングはまったく聴くことが出来ないのだ。しかも、テンポもミディアム。意外でしょ。

実は65年に最初のカバー・バージョンが、カンニバル&ハンターズによって出たのだが、そこではじめて「ナーナナナー」というハミングのアレンジを聴くことが出来る。

同グループのリードシンガー、フランキー・ガルシアが、この曲をレコーディングする前にライブで何度も演奏するうちに、ふとアイデアがひらめいてハミングを入れてみたら観客にバカウケ。レコーディングもそのスタイルでやったというのだ。

これをピケットもそのまま踏襲。ハンターズは全米30位止まりだったが、彼は全米6位の大ヒットに仕立てたのだった。

一方ウォーカーズは、ハンターズ版よりも彼らの持ち味に近づけて「ラーラララー」とハミングを変えてみせた、というところだろう。

要するに、「ヒット・ソングは進化する」ということだね。前にも「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」などを材料に言ってきたことであるが、タイトルや歌詞、ビート、アレンジ、こういったものを思い切って変えていくことによって、より時代のニーズに即したかたちへ変容していくのが、ヒット・ソングなのである。

ウォーカーズ版「ダンス天国」は、ブラック・ミュージックにはまったく興味を持たない一般リスナー層にまでソウル・ミュージックを浸透させたということで、大きな役割を果たしたといえよう。

リード・ボーカルのスコットと、それにハモをつけるジョン。ふたりの歌い手のワイルドなシャウトが、英国、そして世界のリスナーを興奮させたのである。

その歯切れのいいビートは、今聴いても実にカッコいい。最高のダンスナンバーを、踊りながら堪能してくれ。

この曲を聴く

2013年6月9日(日)

#271 コレクティブ・ソウル「Shine」(Hints Allegations & Things Left Unsaid/Atlantic)

ゴメン、今週は体が絶不調なので少し短かめにて失礼させていただく。

ジョージア州出身の白人ロックバンド、コレクティブ・ソウルのデビュー・アルバムより、デビュー・シングル。エド・ローランドの作品。

コレクティブ・ソウルは92年結成、93年にアルバムデビュー。メンバーを入れ替えつつ、現在に至るまで9枚のアルバムをコンスタントに発表している。

本国アメリカでは爆発的といかないまでも、ヒットもそこそこに出し、固定ファンもちゃんといるのに、日本ではさほど話題にならないバンドなんだが、一体何故なんだろう。(事実、Wikipediaのぺージさえない。)

おそらく、彼らの場合、サウンドにオリジナリティがある分、「誰か(有名バンド)に似ている」という例えが難しい、そのことがネックになっているような気がする。

リスナーというものはおかしなところがあって、有名バンドをモロに真似た亜流バンドは「パクりじゃん」とこき下ろすのに、声とかハーモニーとかギターリフとかメロディに少し似たところがある程度なら、むしろ好意的にとらえるようなところがある。そして、「○○をリスペクトしています」というアーティストの発言も歓迎したりする。オアシスとビートルズの関係みたいに。

レコード業界、マスメディアにしても同様で、「○○の再来」というフレーズを使って売りたがっている、そんな感じだ。

アーティストにとって一番重要なことは、他の誰にもない「オリジナリティ」であるはずなのに、マス・セールスを第一義とするポップ・ミュージックの世界では、それはあくまでも建前であって、ホンネはむしろ、誰か過去の有名アーティストに似ていて(ルックスも含めて)、そのファンを取り込めるようなアーティストが望ましいみたいだ。

商業音楽である以上、それはある程度いたしかたないが、そのせいで真に実力のある、オリジナリティ溢れたバンドが影に隠れてしまうのは、いいことじゃないよね。

きょうの一曲は、コレクティブ・ソウルのデビュー・ヒット。彼らはジャンルとしてはオルタナティブ・ロック、それもポスト・グランジというカテゴリに入っているようだが、こういう括りってあまり意味がないと思う。

ポスト・グランジとされるバンド群が、みな同じようなサウンドを目指しているとはいい難いし、ひとつのバンドの中でもさまざまなサウンドを持っていたりする。括る側の理由は、そうしたほうが「売りやすいから」であって、括られる側としては、いい迷惑なのであろう。

クラシカルなハードロック、メロディアスでフォーキーなサウンド、ファンキーなビートなど多面的な顔をもつコレクティブ・ソウルは、ボーカルでプロデュースも担当するバンドの中心人物、エド・ローランドの唯一無二の個性を前面に押し出したバンドなのだ。

だから、今回は「○○を思わせる」などというたとえはしない。貴方自身の感性で、彼らの魅力をつかみとってほしい。ローランドの少しハスキーで野性的な歌声、ヘビーでタイトなバンドサウンドに、他のアーティストにない何かをかぎとれるはず、そう思っている。

この曲を聴く

2013年6月16日(日)

#272 大野えり「Milestones」(Good Question/日本コロムビア)

皆さんは、大野えりというシンガーをご存じだろうか。

55年名古屋生まれなので、筆者よりはちょっとだけ年上の、ベテランジャズシンガー。

京都の同志社大学で軽音楽部にたまたま入ったことから、彼女のジャズ人生が始まった。シンガーとして山野ビッグバンドコンテストで審査員賞を受賞。大学卒業後も関西のライブハウスに出演しているうちに、東京からお呼びがかかり、78年上京。翌年、ピアニスト佐藤允彦のプロデュースによりアルバムデビュー。

24才の若さで錚々たるベテランミュージシャンをバックにメジャーデビューしたのだから、当時いかに彼女の才能が注目されていたかがわかるね。

おりしも70年代後半から80年代前半にかけて、阿川泰子、秋本奈緒美、真梨邑ケイをはじめとする若手女性ジャズシンガーがブームとなっており、歌そのものというより、若さ、あるいは容姿を競うような傾向が強かったが、大野の場合、その流れとはちょっと違っていて、もっと「実力本位」で評価されていたという記憶がある。

そしてそのスタイルも、ジャズシンガーの紋切り型といえるロングドレスでも、また、その逆を行くミニスカでもなく、同性のファンにも支持をえられそうな「モード系」の雰囲気が、大野えりにはあったといえる。

きょうの一曲は、80年夏に彼女が自身のバックバンド「Good Question」を結成し、彼らとともに作った81年の4枚目のアルバムより。マイルス・デイヴィスの作品。

そう、ジャズの帝王マイルス、58年のアルバムのタイトル・チューンを、果敢にもボーカルでカバーしてるのですよ、皆さん!

実は大野、デビューして間もないころ、FMのジャズ番組に出演したときのインタビュー(MCは悠雅彦さん)で、憧れのミュージシャンとして「マイルス」をいの一番に挙げていたのである(彼女の表現としては「カッコいい」と言っていた)。このことでわかるように、彼女は歌うことにしか興味がないタイプのシンガーではなく、サウンドやそのたたずまいも含めて、ジャズ・ミュージシャンに憧れをもってこの世界に入ってきたということであり、シンガーとしては珍しくサウンド指向が強いひとなのだ。

そういうこともあってだろうか、歌うジャンルはいわゆるジャズに限らない。83年には、ムーンライダーズの白井良明のプロデュースで全曲モータウン・サウンドのカバーという異色盤「トーク・オブ・ザ・タウン」を発表している。これもなかなかユニークでおススメなのだが、要するに、英語の歌がうまいので、どんなジャンルのものでも問題なくカバーできるということだ。これぞ実力の証明。

「Milestones」を聴いてみると、おなじみのマイルスのアップダウンの激しいフレーズをなんなくフォローしており、とにかくものスゴく安定感に溢れた歌唱という感じ。20代後半にして、これだけ思い切りのいい歌いかたが出来るひとが、いまどれだけいるだろうか。ほとんどのシンガーが、愛嬌だけが頼みの「なんちゃってシンガー」にしか思えなくなってくる。

マイルスがジャズの革命ともいえる「モード奏法」を本格的に取り入れ始めた時期の代表曲を、26才の駆け出しシンガーがひょいとレパートリーにしてしまうなんて、大野えり、ホント、ただ者ではない。

そして、もうひとつ、大野のスゴいところは、大学の軽音部時代からすでにこの思い切りのいい、キップのいい歌いかたを身につけていたということだな。そしていまもそれは変わることなく、さらにスケールアップしているといえる。

こんなスゴい才能の持ち主なのに、約35年にわたってヒットらしいヒットが出ていないのは、本当にもったいない。でも、大野の場合、真に実力あるミュージシャンたち(本場アメリカのも含む)からの支持がハンパでないから、それで十二分に報われているともいえよう。

それなりに固定ファン層も厚く、今後も地道に活動を続けていくであろうが、こういうシンガーのよさがわからないようじゃ、日本人の音楽の感性もまだまだだってこと。ぜひ、ベテランの底力を見せてほしいものだ。

この曲を聴く

2013年6月23日(日)

#273 クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル「Night Time Is the Right Time」(Green River/Fantasy)

CCR、69年リリースのサード・アルバムより。ナッピー・ブラウン、オジー・カデナ、ルー・ハーマンの作品。

「Night Time Is the Right Time」あるいは「The Right Time」は、一般にはレイ・チャールズの58年の大ヒットで知られているので、彼のオリジナルだと思っている人が多いのだが、彼より1年前に他のアーティストがヒットさせており、チャールズ版はそのカバーなのだ。

それが、黒人R&Bシンガー、ナッピー・ブラウンによる57年のバージョン。

ブラウンは29年ノース・キャロライナ州シャーロット生まれ。ゴスペル歌手からR&Bに転向、サヴォイ・レコードより「Don't Be Angry」「It Don't Hurt No More」そしてこの「Night Time Is the Right Time」など、いくつかの曲をヒットさせている。

さらに溯ればこの曲の原型は、ルーズベルト・サイクスやビッグ・ビル・ブルーンジーによって既にレコーディングされていたのだが、それはさておき、今日までよく知られていような歌詞やコール&レスポンスのスタイルのものは、ナッピー・ブラウンによって生み出されたといっていい。

ブラウン版を聴いてみると、ちょっとビッグ・ジョー・ターナーに似た雰囲気のシャウターである。ゴスペル畑出身だけに、その迫力は満点だ。

実はこの曲、昨年の6月17日の当コーナーで、ビッグ・ジョー・ターナー版を取り上げたことがあるのだが、皆さん、覚えておられるだろうか?

要するに、性懲りもなく、同じ曲を他のアーティストでまた取り上げたということであります。申し訳ない。

でも、言い訳させてもらうなら、何度も取り上げたくなるくらい、この曲は魅力に満ちみちているのであるのだよ、ホント。

きょうのCCR版は、アルバム最後を締めくくる、唯一のカバー曲。youtubeの映像ではスチュとトムがコーラスを担当しているように見えるが、聴いてわかる通り、すべてのボーカル・トラックはジョン・フォガティによるもの。つまり多重録音。

この曲はコンサートではまったく演奏されず、ご覧いただいているTVショーで一回だけ「あて振り」で演奏されたもののようだ。

後期のCCRでは、ジョン以外のメンバーも歌うようにはなったが、デビューしてしばらくは、歌・コーラスをジョンがすべて担当していた。これがCCRの歌にハンパでない迫力、そして厚みをあたえていたといえるだろう。

サウンドのほうは、「これぞCCR!」というべき、シンプルでストレートなブルース・ロック。もう、すべてのバンドのお手本にしたいような、タイトな音なのである。

天性のソウルマン、ジョン・フォガティの渾身のシャウト。これを聴けば、凡百のシンガーなど全て吹っ飛んでいく。レイ・チャールズ、ジェイムズ・ブラウン、ルーファス&カーラといった「濃い」黒人勢にも一歩たりともヒケを取らない熱唱だ。

フォガティはデビューして45年経った現在も、現役バリバリで歌い続けているが、やっぱ彼の才能はモノホンだ。筆者にとっても、エルヴィス、ジョン・レノンらと並ぶ、最重要なヒーローのひとりであります。

この曲を聴く

2013年6月30日(日)

#274 アウター・リミッツ「Just One More Chance」(The Mod Scene/Deram)

英国のモッズ・グループ、アウター・リミッツ、67年のデビュー・シングル。ジェフ・クリスティの作品。

アウター・リミッツというバンド名は、皆さんほとんどご存じないかと思う。では、70年に全世界で300万枚以上の大ヒットを記録したシングル「イエロー・リバー」はどうだろう。50代半ば以上のかたなら、ほぼ全員のかたが覚えておられるのはないだろうか。

このふたつに何か相関関係があるのかって? 実は大ありで、同一人物がボーカルと作曲を担当しているのである。それが、ジェフ・クリスティだ。

彼は46年、ヨークシャー州リーズ(そう、あのザ・フーのライブ盤でおなじみの街である)生まれ。アウター・リミッツのボーカル/ギターとして67年にレコード・デビューし、翌年にはセカンド・シングル「Great Train Robbery」もリリースしている。69年には別バンド、アシッド・ギャラリーのボーカルとして「Dance Around The Maypole」をリリース。いずれも大きなヒットにはなっていない。

そんな鳴かず飛ばず状態だったジェフ・クリスティを、一躍時の人に変えたのが、70年4月に「クリスティ」というバンド名でリリースしたシングル「イエロー・リバー」だった。

6月には全英でナンバーワンになっただけでなく、米ビルボードでも23位、日本でもTBSトップ40などで1位をとる世界的なヒットとなった。

そのサウンドは、英国バンドらしからぬ、アメリカのカントリー・ロックそのもの。CCRとの類似性も話題になり、ワタシなども、ずっと生粋のアメリカン・バンドだと勘違いしていたものだ(苦笑)。だが、メンバーは全員、英国出身だった。

実はこの曲、もともと英国のベテラン・バンド「トレモローズ」のシングル用として、クリスティが作曲したものだった。しかし、この曲の前に「Call Me Number One」というオリジナル曲がヒットしたことが影響して、次回作も「By The Way」というオリジナル曲で行こうということになり、結局、プロデューサー、マイク・スミスはボーカル・トラックを作曲者クリスティ自身のものに差し替えて、「イエロー・リバー」を世に出したのである。

そういう裏事情を知ると、この曲はもしかしたらトレモローズでヒットした可能性もあったろうし、いやヒットすらしなかったかもしれない。どちらにしても、作曲者自身が表舞台に出てくることはなかったろうから、ヒットというものは偶然の要素にいかに左右されるかがよくわかるね。

さて、前置きが長くなってすまん。ようやく、本題のアウター・リミッツのデビュー曲の話である。

いかにも67年頃っぽい、ブルーアイド・ソウル系の曲調なのだが、クリスティの歌を聴いていて、筆者がふと連想したのが、桑田佳祐の声。

声を張り上げたときよりはむしろ、ややテンションを下げた「嘆き節」的なときの歌声が、みょうに桑田のそれに似ているのである。いやこの場合、桑田がクリスティに似ているというべきか。

リスナーの心を引きつける歌手の声には、どこか共通の「ツボ」のようなものがあると筆者は常日頃考えているのだが、彼らにはそういう、「嘆き節」でリスナーのハートをグッと掴む、みたいな共通点があるのではなかろうか。

ジェフ・クリスティの歌声は、ほとんどの人々は「イエロー・リバー」でしか知らないわけだが、この「Just One More Chance」は、違う味わいの、彼の魅力があらわれた佳曲だと思う。筆者的には、むしろ、のっぺりとした感じの「イエロー・リバー」での歌声よりも深みがあって、彼の本来の良さがよく出ているのではないかと思う。

3分少々と短いが、繰り返し聴くとその味わいにどんどんハマっいく、スルメのような曲だ。

メガヒット「イエロー・リバー」の3年前に生まれていた、知られざる名曲。クリスティの嘆き節、泣き節を、じっくり味わってくれ。

この曲を聴く

2013年7月7日(日)

#275 レイ・チャールズ「That Old Lucky Sun」(Best Of Ray Charles/Victor)

今年もはや、後半に突入である。梅雨も明けて、本格的な夏に突入した7月の第一弾はこれ。

先々週の「Night Time Is the Right Time」が好例だが、レイ・チャールズはオリジナル作品を多数もつ一方で、他のアーティストの作品も遠慮なく歌う「カバーの達人」でもある。そんな彼による、63年のレコーディング。ビーズリー・スミス、ヘブン・ガレスピーの作品。

もともとこの曲は西部劇の俳優として有名な、フランキー・レインによって49年に大ヒットしたものだ。

これをヴォーン・モンロー・オーケストラやルイ・アームストロング、フランク・シナトラがこぞってカバーし、49年を代表するヒットとなったのである。

その後も、このカントリー・バラード調の哀愁あふれるメロディにひかれて、数多くのアーティストがカバーしている。50年代では、バッファロー・ビルズによるコーラス、ジェリー・リー・ルイス、サム・クック、60年代に入ってからは、ベルベッツ、アレサ・フランクリンらのバージョンがその代表例だ。

レイ・チャールズ版はそれらにいささか遅れて、63年、アルバム「Ingredients in a Recipe for Soul」のためにレコーディングしている。

まずは、聴いていただこう。レイ・チャールズのバック・サウンドは大別して、ストリングス中心のポピュラー・ソング風のアレンジと、リズムを強調したR&B、ソウル風アレンジの2種があると思うが、この曲は前者に属するタイプ。いかにも、白人のリスナーにも十分ウケそうな、カントリー・タッチのアレンジになっている。

ゆっくりとしたテンポで、噛みしめるように歌うチャールズ。バックこそ、弦と混声コーラスでポピュラー・ソングっぽいのだが、歌にはやはり、彼ならではのソウルが感じられるね。特に、サビ部分の、控えめながらもこみ上げる思いを歌うさまは、聴く者の心を強くゆさぶるに違いない。

その後もこの「That Old Lucky Sun」は、70年代にはポール・ウィリアムス、ウィリー・ネルスン、90年代以降はジェリー・ガルシア・バンド、リトル・ウィリー・リトルフィールド、ジョニー・キャッシュ、ブライアン・ウィルスン、クリス・アイザックらによって、また日本では久保田麻琴によってもカバーされている。まさに、エバー・グリーンな一曲。

本来はカントリー・ソングとして生まれながら、そのメロディには、ソウル・バラードにも通じる、胸にしみる哀愁があり、それゆえに白人・黒人を問わず愛唱されるのだと思う。その、数あるバージョンの中でも、レイ・チャールズの名唱は、後進のアーティストたちを強くインスパイアしたはずである。

歌曲(うた)は、歌い継がれることによって、その生命を何十年、何百年も長らえることが可能になる。64年に渡って私たちを魅了しつづけてきた「That Old Lucky Sun」。いま一度、その魅力にふれてみよう。

この曲を聴く

2013年7月14日(日)

#276 アルバート・リー&トニー・コルトン「The Next Milestone」(The Blues Anthology DISC2/Immediate)

英国のギタリスト、アルバート・リー、イミディエイトでのレコーディングより。トニー・コルトン、レイ・スミスの作品。

アルバート・リーは43年、イングランド・レオミンスターの生まれ。バディ・ホリーの影響でギターを弾き始め、16才の若さでプロとなった。

ジミー・ペイジも在籍していたことのある、シンガー、ニール・クリスチャンのバンドや、クリス・ファーロウがリード・ボーカルだったサンダーバーズなどに参加。

ブラック・ミュージック、カントリー・ミュージックの両方に精通したそのギター・テクニックには定評があり、セッション・ギタリストとしてもひっぱりだこだった。

70年にはカントリー・ロックのバンド、ヘッズ・ハンズ&フィートを結成。商業的には成功したとはいえなかったが、その鮮やかなギター・プレイは「アルバート・リー」という名を広く知らしめることとなった。

74年に同バンドを解散後、アメリカに移住。カリフォルニアを拠点に、セッション・ギタリストとしてジョー・コッカー、エミルー・ハリスらと共演。

79年にはエリック・クラプトンのバンドに参加。クラプトンをもしのぐ、超絶技巧が話題となる。そのプレイは来日時のライブ盤「ジャスト・ワン・ナイト」で聴くことが出来る。

その後もソロ、他のミュージシャンのバッキングで八面六臂の活躍を続け、69才となった現在に至るわけだが、そんな彼の初期のプレイが聴ける貴重な音源を紹介しよう。

「The Next Milestone」は、リーが後にヘッズ・ハンズ&フィートを組むことになるトニー・コルトン、レイ・スミスの作品。68年録音。

リード・ボーカルはトニー・コルトンで、リード・ギターをリーが弾いている。

オリジナルだが、いかにも黒人ブルースの影響をどっぷり受けた感じの楽曲。「How Long」という歌詞あたりに、それが如実にうかがえる。

いかにもリーらしい速弾きは聴くことが出来ないが、ブルースを、それも原典の黒人ブルースをしっかり聴き込んでいることがわかる、正統派のブルース・ギターだ。弦の響きを大切にし、すみずみまで神経の行き届いたプレイは、クラプトンやピーター・グリーンらとはまた違ったタイプで、「本当にギターが上手いってのは、こういうプレイをいうんじゃないかな」と思わせる。

まさに、ギタリストに支持されるギタリストの面目躍如である。

ちょっとラフなボーカルをうまくバックアップし、ダルなブルースを表現しているリー。その後のバンドのサウンドからはあまり想像がつかない初期のブルーズィな演奏、なかなかの聴きものである。

ブリティッシュ・ブルースの隠れた名演奏、ぜひチェックしてみて。

この曲を聴く

2013年7月21日(日)

#277 ジョン・リー・フッカー「I Need Some Money」(The Very Best Of John Lee Hooker/Rhino)

ジョン・リー・フッカー、60年のレコーディングより。ベリー・ゴーディ・ジュニア=ジェニー・ブラッドフォードの作品。

この曲、ひらたく言えば、ビートルズの「マネー」である。が、ビートルズのオリジナルではなく、もともとはモータウンのヒットなのだ。

オリジナルの歌い手、バレット・ストロングは41年生まれ、ミシシッピ州ウェストポイント出身の黒人シンガー。のちにモータウンとなるタムラレーベルが、草創期に契約したアーティストのひとりで、60年に同レーベルとして放った最初のヒットが、この「マネー」だった(録音は59年8月)。

ストロングは、歌手としての大ヒットはこの一曲だけだが、60年代半ばより作詞家としてモータウンのスタッフとなり、プロデューサーのノーマン・ホイットフィールドと組んで、数々のヒットを生み出している。

たとえば、マーヴィン・ゲイの「悲しいうわさ」、エドウィン・スターの「黒い戦争」、テンプテーションズの「クラウド・ナイン」「パパ・ウォズ・ア・ローリング・ストーン」といったぐあいだ。作曲者に比べて、ストロングの名前は余り世間に知られているとはいえないが、作詞の才能には確かなものがあった。73年にはグラミーの最優秀R&B賞も受賞している。

70年代、80年代にはシンガーとしても活動を再開し、ヒットには恵まれなかったものの、何枚かのアルバムを残している。

「マネー」が当時いかにヒットしたかということは、同曲をカバーしたアーティストを見ればよくわかるだろう。ジェリー・リー・ルイス、サーチャーズ、ビートルズ、ストーンズ、バディ・ガイ、後にはフライング・リザーズ版なんて変わり種もある。黒人白人、英米を問わず、多くのアーティストを強く刺激した一曲だったのだ。

さて、本題に入ろう。ジョン・リー・フッカーといえば、ドローッとした土臭いブルースを演るブルースマンというイメージで、およそポップというものと無縁という感じだが、実は意外に流行にも敏感なところがあり、このカバーも、オリジナルがヒットしはじめて間もない、6月に録音している。

もちろん、その演奏スタイルは、あくまでもジョン・リー流だ。

アコースティック・ギターにドラムスというシンプルな編成で、シャウトというよりは、低く語り、呟くようなボーカル・スタイル。ギターも、唯一無二のジョン・リー・スタイル。原曲とはノリがまったく違うのだ。

同曲のカバー・バージョンとしてはきわめて異色なのだが、一度聴くと耳から離れない、そんな麻薬的な魅力がある。

「I Need Some Money」というストレート極まりない歌詞とあいまって、ジョン・リーのドスの効いた語りが、聴き手を強くゆさぶるのだ。

後からジワジワと効いてくるボディブローのような、ブルース。ポップ・チューンもアレンジを変えれば、ここまでヘビーになるという好例。

死ぬまでブルースマンを貫いた激ワルオヤジ、ジョン・リー・フッカー版「マネー」。

若造どもとはひと味、ふた味は違う、エグみを堪能してくれ。

この曲を聴く

2013年7月28日(日)

#278 ランディ・クロフォード「Cajun Moon」(Naked And True/Bluemoon)

黒人女性シンガー、ランディ・クロフォード、95年のアルバムより。J・J・ケイルの作品。

この7月26日、J・J・ケイルが亡くなってしまった。享年74。

J・J・ケイルといえば、エリック・クラプトンの大ヒット「Cocaine」の作曲者として注目されたのが、77年。彼が39才になる年のことだった。

タルサで地道に音楽活動を続けてはいたが、ヒットらしいヒットを出せずにいたケイルが、クラプトンによるカバーというかたちとはいえ、初めて日の目を見たのである。

筆者もその時に初めて彼の名を知り、タルサ・サウンドの存在も知った。

だが、考えてみれば、70年のEC初のソロアルバムに収録され、シングルとしても全米18位にまでヒットした「After Midnight」もまた、ケイルの作品であった。実は相当前からケイルの曲を聴いていたことになる。

その時点からケイルの存在が注目されていれば、彼の音楽人生もより華々しいものになったのだろうが、当時はヒット曲の作曲者にスポットライトがすぐに当たるようなこともなかった。情報化時代以前は、そういった情報の流通も、至ってのんびりしていたのである。

その後スターシンガーとなったECの強力なバックアップを得て、ケイルはさまざまなアーティストの曲作りを手がけるようになる。たとえばウェイロン・ジェニングスの「Clyde」「Louisiana Women」、カンサスの「Bringing It Back」、レイナード・スキナードの「Call Me The Breeze」「I Got The Same Old Blues」、トム・ペティ&ハートブレイカーズの「I'd Like To Love You, Baby」、カルロス・サンタナの「Sensitive Kind」などなど。

ケイルの生み出す曲は、彼が影響を受けてきたすべての音楽、ブルース、ロカビリー、ジャズ、カントリーなどが溶け込んだ、極めて土臭い味わいのもので、派手さには欠けるものの、プロのミュージシャンたちの絶大な支持を得たのである。

シンガーとしてのケイルは、72年に出した「Crazy Mama」で全米22位のスマッシュヒットを出したことがあるものの、おおむねヒットとは無縁で、おもにアルバムで勝負するタイプであった。呟くような渋めのボーカル・スタイルゆえ、ポピュラリティを得るのは難しかったのだろう。

さて、きょうの一曲「Cajun Moon」も、ケイルが他のアーティストに提供した楽曲のひとつ。もともとは、フルーティスト、ハービー・マンと黒人女性シンガー、シシー・ヒューストン(ホイットニーの母君ね)が76年に共演したアルバム「Surprises」に収録されており、ランディはこれをさらにカバーしたと思われる。

ランディ・クロフォードはご存知のように、クルセイダーズとの共演アルバム「Street Life」で一躍メジャーシンガーとなったひと。ジャズ系の曲、R&Bっぽい曲、あるいはポップな曲も難なくこなす、超実力派だ。

この95年のアルバム「Naked And True」でもプリンスの「Purple Rain」、アレサ・フランクリンの「All The Kings Horses」など、さまざまなジャンルのカバーを試みているが、なかでもこの「Cajun Moon」は一聴に値いするだろう。

ベースにかのファンク魔人ブーツィ・コリンズが入っているのが「おっ!」という感じだが、バックサウンドはどちらかといえばジャズ寄り。フェンダー・ローズとビブラフォン、そしてストリングスの響きが、オトナのフュージョンを演出している。

クロフォードの粘っこい声質が、この曲のもつアーシーな雰囲気にぴったりハマり、メロディの単純な繰り返しでさえ心地よく感じられる。

ケイルの遺したさまざまな曲は、こうやって優れた歌い手を触発し、今後も歌い継がれていくに違いない。

偉大なる、遅咲きの才能に敬意を表して、ここに彼の名曲を遺しておこう。

この曲を聴く

2013年8月4日(日)

#279 ギター・スリム「Things That I Used To Do」(Sufferin' Mind/Specialty)

ギター・スリム、54年の大ヒット。彼自身のオリジナル。

ギター・スリム(エディ・ジョーンズ)については当コーナーでも3年半前に取り上げたことがあるが、彼の曲の中でも絶対に外せないのがこの一曲だろう。彼の最大のヒットナンバー「Things That I Used To Do」である。

レコーディングは53年10月、ニューオリンズのマタッサズ・J&Mスタジオにて行われた。

ちょうどその時N.O.を訪れていたのが、23才のレイ・チャールズ。アトランティックに移籍しての最初のヒット「Mess Around」を出し、新進気鋭のシンガー/ピアニストとして注目され始めた頃である。

一方、ギター・スリムは少し年上の26才。前年に「Feelin' Sad」という曲で小ヒットを飛ばし、徐々に名前が売れ始めたあたり。この若いふたりの出会いが、思わぬ大ヒットを生み出すことになった。

レイ・チャールズはこの「Things That I Used To Do」を編曲し、バックのピアノを弾くというサウンド・プロデュサー役で参加した。これが見事に功を奏し、曲はR&Bチャートの1位に輝き、ミリオン・セラーを達成したのだった。

以降、さまざまなアーティストがこの曲をカバーしている。ジェイムズ・ブラウン、アルバート・コリンズ、マディ・ウォーターズ、ジュニア・パーカー、フレディ・キング、チャック・ベリー、ビッグ・ジョー・ターナー、バディ・ガイ、ジミ・ヘンドリクス、スティービー・レイ・ヴォーン、グレイトフル・デッド、ジョン・メイヤーなどなど。つまりは、ブルース・スタンダードのひとつとなったのだ。

この曲がここまで強く支持された理由はなんなのだろう。筆者が思うには、12小節のブルースの形式を取りながらも、それまでの黒人ブルースとは違う独自のカラーを持ち、より普遍的なポピュラー・ソングへと昇華されているところにあるのではないかな。

たとえば、ギター・スリムのギター・プレイを聴いてみれば、あるいはギターを弾いてそれをなぞってみればわかると思うのだが、彼はブルースでは常套的に使われるブルーノートを、ほとんど使っていない。これはかなりスゴいことだ。

ブルースをブルースたらしめている重要な要素のひとつ、ブルーノートという音階に縛られずに、ブルースを生み出している。つまり、それはもはや、ブルースの次のステージへと進もうとしているしるしなのだ。

彼は髪の毛をカラフルに染めたり、それまではクリーン・トーンが当たり前だったエレクトリック・ギターにディストーション・サウンドを持ち込んだり、などのギミックを好んでやったというが、それもまた、レース・ミュージックとしてのブルース/R&Bを脱却して、普遍的なポップへ向かおうとしていた証拠だと思う。

黒人の中でしかウケない音楽でなく、より多くの聴衆を引きつける音、そしてライブ・パフォーマンス。これが彼の目指していたものだったと思う。

そういう意味でも、黒人白人を問わず支持された才能、レイ・チャールズとのコラボレーションは正解だったのだと思う。

曲はいかにも一発録りの時代らしく、ライブ感に溢れている。後半の出だしのタイミングを間違えて、早めに歌い始めてしまったミスもそのまま収録されてしまったあたり、なんとも微笑ましいが、そんな細かいことなどどうでもいいと思えるくらい、ギター・スリムの歌は気迫に満ちているし、どこかのんびりとした、郷愁を誘うギター・ソロも素晴らしい。対するにバックのピアノやホーンはカッチリとしたサウンドでソツがなく、彼の野放図な個性と好対照をなしている。

まさに「出たとこ勝負的セッション」のスリルが、この4分足らずの曲の中につまっている。

ギター・スリムの唯一無二の個性が凝縮された一曲。60年経とうが、その魅力はいまだに輝き続けてるね。

この曲を聴く

2013年8月11日(日)

#280 キング・カーティス「Memphis Soul Stew」(Memphis Soul Stew/Atlantic)

メンフィス・ソウルの立役者、サックス奏者キング・カーティスの代表的ヒット・ナンバー。カーティス自身の作品。

キング・カーティスことカーティス・アウズリーは34年、テキサス州フォートワース生まれ。ルイ・ジョーダンに影響を受けて、10才からサックスを吹き始める。その才能の早熟ぶりは、10代後半からニューヨークでジャズ系のスタジオミュージシャンとして活動していたことからも、十二分にうかがえる。

R&B畑にも進出、コースターズのバックなどを経て、59年ソロ・デビュー。62年の「Soul Twist」でR&Bチャート1位となり、大ブレイク。ナンバーワン・サックスプレイヤーの王座を獲得する。

65年にはアトランティックと専属契約、「Memphis Soul Stew」をはじめとするヒット・ナンバーを数多く生み出す一方、同レーベルのアーティスト、アレサ・フランクリン、アルバート・キング、サム・ムーアらのプロデュース、楽曲提供を精力的におこない、名プロデューサーとしての評価も得る。

このように若くして才能を発揮、ソウル・ミュージックの頂点に立ちながらも、71年、37才の若さでこの世を去っている。ジョン・レノンのアルバム「イマジン」制作に参加、そのリハからの帰途、自宅前で麻薬中毒者と口論になり、ナイフで刺されてそのまま帰らぬ人となったのである。

彼のサックス・プレイは非常に力強く、その高音部を強調した泣きのソロは、デイヴィッド・サンボーンやトム・スコットといった後進のプレイヤーたちに強い影響を与えている。また、作曲家、アレンジャー、プロデューサーとしてのセンスも高く、プロコルハルムの「青い影」に代表される白人ロックのナンバーをレパートリーにして見事に消化したり、早くからファンクに注目してそのエッセンスを取り入れるなど、時代の先取りに長けていた。早世がまことに惜しまれる才能だった。

そんな彼は一方、すぐれたミュージシャンの抜擢にたけた「伯楽」、一級の目利きでもあった。そのバック・バンド「キングピンズ」に在籍したミュージシャンが、これまたスゴい人ばかりなのだ。

ギターのコーネル・デュプリー、ベースのジェリー・ジェモット、同じくチャック・レイニー、ドラムスのバーナード・パーディ、ピアノのリチャード・ティーなどなど、錚々たるメンツばかりだ。英国に進出する前の、ジミ・ヘンドリクスが在籍していたこともある。

ソウル・バンドとしては、ブッカー・T&MG’Sと双璧をなす存在であったといって、間違いない。

カーティスの死後、残されたキングピンズのメンバーたちは、それぞれに華々しい活躍をしているが、それは皆さんご存じのことなので、あえて詳しくはふれない。とにかく、カーティスの目利きがいかに卓越していたかの証拠であろう。

さて、ようやくきょうの本題だ。キング・カーティスとキングピンズの、TVショーでのライブを観ていただこう。キーボードはリチャード・ティーではないが、デュプリー、ジェモット、パーディを従えた堂々の演奏を聴くことが出来る。とにかく、各メンバーのプレイがごきげんの一言だ。これでノレない人は、ソウルとは相性が悪いとしか、いいようがない。

彼らが演っていたのは、ジャズ、ブルース、R&B、ソウル、ロック、そして後のファンクなども含めた、あらゆるグルーヴ・ミュージックをひとつに溶かし込んだ音楽。まさに「Soul Stew」だった。

ありし日のキング・カーティス、また現在も活躍中のスゴ腕プレイヤー達の往時のプレイは、何度味わってもあきないね。貴方も、ぜひ堪能してみて。

この曲を聴く

2013年8月18日(日)

#281 フレディ・キング「Get Out Of My Life, Woman」(Freddie King Is A Blues Master/Atlantic)

フレディ・キング、69年のコティリオンからのアルバムより。アラン・トゥーサンの作品。

先週取り上げたキング・カーティスつながりで、取り上げてみた。アルバムそのものも、すでに2006年12月3日の「一日一枚」で取り上げているのだが、いい曲は何度でも聴きたくなるものなのだ。ご勘弁を。

「Freddie King Is A Blues Master」は、ボーカル・アルバムとしても、またインスト・アルバムとしても本当に名盤だと思う。それはもちろん、主役のフレディ・キングの実力によるところではあるが、それを支えるプロデューサー、キング・カーティス、そして彼が率いるバンド、キングピンズの類い稀なる演奏力によるところも大きい。

まずは、きょうの一曲「Get Out Of My Life, Woman」を聴いていただこう。

この曲は、われわれ日本のリスナーにとっては、バターフィールド・ブルース・バンドのバージョンが一番おなじみであるが、もともとはニューオーリンズのR&Bシンガー、リー・ドーシーがオリジナルなのだ。

ドーシーは24年、N.O.に生まれ、自作の「Ya Ya」が61年に大ヒット、一躍人気シンガーとなる。65年に「Ride Your Pony」、66年にこの「Get Out〜」をヒットさせ、再び注目を浴びることとなる。その仕掛人が、かのアラン・トゥーサンだった。

シンプルなリフレインの繰り返しが基本だが、それが強力なグルーヴを生み出しているこの曲、またたく間に黒人・白人を問わず多くのミュージシャンを引きつけ、さまざまなカバーバージョンが生まれた。

バターフィールド・ブルース・バンド、フレディ・キング以外では、トゥーサン本人、アルバート・キング、ソロモン・バーク、ジョー・ウィリアムズ、ビル・コスビー、アイアン・バタフライ、ジェリー・ガルシア、マウンテン、などなど。わが国では、原田芳雄、内海利勝らも演っている。

みんな、ニューオーリンズならではの粘っこいファンクネスに、魅せられたのだろうね。

フレディ・キング版も、この曲の持ち味を最大限に引き出した、ベスト・パフォーマンスに仕上がっている。

イントロのギター・ソロから既に、フレディ節全開。これでもかというぐらい、スクイーズしまくっている。そして、あのホットな歌声が耳を直撃する。

フェンダー・ローズ(NO出身のジェイムズ・ブッカー)、ホーン・セクション(キング・カーティス、デイヴ・ニューマン、ジョー・ニューマンら)が、それを見事にバックアップしているが、とりわけゴキゲンなのは、ベースのジェリー・ジェモット、ドラムのノーマン・プライドが生み出す、極上のグルーヴだろう。

その重心の低い、ファンキーなビートは、フレディ・キングの求めていたサウンドとぴったり重なり、後のシェルター時代のファンク・ロックへと連なっていく。そんな印象が、この曲にはある。

この時期のフレディ・キングの音楽は、たとえていうなら、ブルースにしてブルースを越えた、より高次元の音楽へと生まれ変わろうとしているかのようだ。

白人ロッカーらにも絶大なる影響を与えたフレディ・キング。この一曲を聴いただけでも、その理由は十分わかるんじゃないかな。ぜひ聴いてくれ。

この曲を聴く

2013年8月25日(日)

#282 ベニー・スペルマン「Fortune Teller」(Fortune Teller: A Singles Collection 1960-67/Spin)

黒人R&Bシンガー、ベニー・スペルマン、62年のヒット曲。ナオミ・ネヴィルの作品。

皆さんの大半は「ベニー・スペルマン? 誰ですかそれ?」とお思いでしょうが、とにかく曲を聴いてみてほしい。おそらく、一度は耳にしたことがあるはず。でしょ?

そう、ローリング・ストーンズのファンなら初のライブ・アルバム「Got Live If You Want It!」(66年)で、ザ・フーのファンなら「Live At Leeds」(70年)で。

筆者は後者のクチなのですが、この歌がザ・フーのオリジナルでないことはわかっていても、ベニー・スペルマンのカバーであることなど、最近まで全く知りませんでした、ハイ(汗)。

大体、作曲者のナオミ・ネヴィルって何者やねん!って感じですが、実はこれ、先週の当コーナーにも登場したアラン・トゥーサンの変名なのであります。なんでも、彼の母親の、旧姓名を使ったとか。ただし、かのネヴィル・ブラザーズとは全く血縁関係はないそうで。

ベニー・スペルマンは31年、フロリダ州ペンサコーラ生まれ。59年まではフロリダに住んでいたが、巡業でやってきたヒューイ・ピアノ・スミスのトラブルを助けたのがきっかけで、スミスにくっついてニューオーリンズに移住、そのバックバンド、クラウンズに加入してしまったという、えらくお気楽な風来坊ミュージシャンなのである。

NOのレコード会社、ミニット・レーベルと契約したものの、やって来るのはバックボーカルの仕事程度。アーニー・K・ドゥーの「マザー・イン・ロウ」のバック・ボーカルは彼だったりする。

だが、この曲がナンバーワン・ヒットになったことがプラスに働く。K・ドゥーのプロデューサーだったアラン・トゥーサンがそのバリトン・ボイスに惚れ込み、スペルマンをソロ・シンガーとして開花させようと考えたのだ。

で、生まれたのが「Lipstick Traces (On A Cigarette)」とこの「Fortune Teller」の2曲だ。前者はバラード、後者はビート・ナンバーで、それぞれA面、B面という扱いだったが、ともにヒットしたのである。

カバーについては、圧倒的に「Fortune Teller」のほうが多く、ストーンズ。フー以外にもホリーズ、マージービーツ、ダウンライナーズ・セクトなどがカバー、英国のビート・バンドにとってスタンダードともいえる重要なレパートリーとなっている。

曲の構造は、きわめてシンプルだ。ひたすら同じメロディを執拗に繰り返していくスタイルなのだが、それゆえの力強さはこの曲の大きな魅力となっている。先週の「Get Out Of My Life, Woman」にも共通した、トゥーサン・ナンバーの特徴といえるだろう。

スペルマンのシブい声の魅力、トゥーサンの曲の魅力、そしてバックのタイトなリズムなどがあいまって、一級のビート・ナンバーに仕上がっている。

そしてこの曲のもうひとつの魅力は、その歌詞だろう。占い女のところで恋愛運を占ってもらったら「貴方は恋に落ちるだろう」といわれたものの、好きになれる女がいっこうに見つからない。文句を言おうともう一度占い女のところに行ってみたら、ふとひらめくものがあって、その女のベールをはぎ取ってみる。その素顔を見たとたんに、彼女に恋をしてしまうという結末。まあ、オチは見え見えなのだが、いいよね、こういう展開って。

恋という名のマジックをテーマに、これだけシンプル、キャッチー、かつ力強い曲にまとめあげたのは、アラン・トゥーサンならではの技だろう。

事実、この曲を振り出しにトゥーサンは、新しい時代のR&Bを精力的に生み出し、その名を轟かせていくのだから、重要な一曲といえよう。

文字通り一発屋ではあったが、その声の魅力で今後もツウなリスナーたちを魅了するであろう、ベニー・スペルマン。名曲「Fortune Teller」は不滅です。

この曲を聴く

2013年9月1日(日)

#283 クロード・ウィリアムスン「Stella By Starlight」('Round Midnight/Bethlehem)

白人ジャズ・ピアニスト、クロード・ウィリアムスン、57年リリースのアルバムより。ヴィクター・ヤング=ネッド・ワシントンの作品。

クロード・ウィリアムスンは1926年、ヴァーモント州ブラットルボローの生まれ。テディ・ウィルスン、アル・ヘイグ、バド・パウエルなどの影響を受けて、ジャズ・ピアノを弾き始める。

20代の初め、西海岸に移住、レッド・ノーヴォ、ジューン・クリスティ、マックス・ローチ、アート・ペッパー、チェット・ベイカー、バド・シャンクらと共演して名を上げていく。

54年にはキャピトルにて初リーダー・アルバムを録音。56年にはベツレへムへ移籍、ここでは2枚のアルバムを残しており、きょうの一曲はその2枚目からだ。

聴くとすぐにわかるかと思うが、そのプレイは明らかにバド・パウエルの影響が濃厚だ。というか、ほとんどデッド・コピーに近い。

50年代当時、バド・パウエルに影響を受けなかったジャズ・ピアニストなどまったくいないと言っていいぐらい、彼の影響力はすさまじかった(かのビル・エヴァンスでさえ、パウエル・ライクな演奏をしたこともあったくらいだ)。

でも、それにしてもである。ウィリアムスンほど、パウエルへの崇拝にも近い思いを、あからさまに表現したピアニストもいるまい。「それって、プロのアーティストとしてどうなの?」というツッコミを入れたくもなる。

まあ、そのくらい、ウィリアムスンのパウエルへの思い入れはハンパでなく、随所にパウエル的なフレージングが散見されるのだ。

きょうの一曲は、多くのジャズマンによってカバーされてきた、スタンダード中のスタンダード。それを、ベースのレッド・ミッチェル、ドラムのメル・ルイスという手練のセッション・マンをバックに、ウィリアムスンは軽快にプレイしている。

前半は、ゆるやかなテンポでのソロ。そして、テンポを上げてトリオでのスピーディなプレイ。実によくスウィングしており、まったく澱みがない。

強い影響を受けているとはいえ、パウエルの鬼気迫るような雰囲気、スピード感とは裏腹の重いグルーヴはそこにはなく、ジャズ本来の軽みが、良いかたちで表現されているのだ。

結局、パウエルとの一番大きな差異は、そういうタッチの違い、ニュアンスの違いにあるといえよう。

パウエルのあの「紙一重」の重〜い音楽についていけなかったリスナーも、ウィリアムスンの軽快なサウンドなら受け入れられるのではないかな。

たしかに、オリジナリティという意味では、到底パウエルを乗り越えようがない。しかし、ジャズとは基本的にポピュラー音楽であり、軽音楽だ。ウィリアムスンのような、アーティストというよりは、アーティザンなミュージシャンにも、十分存在価値はある。

ビル・エヴァンスのようなメジャーな人気はないにせよ、手堅い実力を持ったピアニスト、クロード・ウィリアムスン。再評価に値いするひとだと思うよ。

この曲を聴く

2013年9月8日(日)

#284 ボビー・ブルー・ブランド「I Smell Trouble」(The Best of Bobby Bland/MCA)

黒人シンガー、ボビー・ブルー・ブランド、57年のシングルより。ドン・ロビーの作品。

この6月に83才で亡くなったブランドだが、日本でのジミな人気からは想像もつかないくらい、本国アメリカでは国民的なシンガーといっていいだろう。そう、B・B・キングと肩を並べるぐらいの。

ブランドは30年、テネシー州ローズマーク生まれ。幼少時よりゴスペル音楽に親しみ、10代で州都メンフィスへ出て、ゴスペル・グループに歌で参加。かの地の人気シンガー、ロスコー・ゴードンの知己を得て、本格的にブルース/R&Bシンガーへの道を歩み出す。

51年、モダンにて初レコーディング。チェスを経て、デュークへ移籍。ここで数々のヒットを飛ばして、人気を確立する。

57年の「Further Up The Road」、そう、クラプトンのカバーでもよく知られるあの曲が大ヒット。R&Bチャートでトップとなっただけでなく、総合チャートでも43位となり、彼の評判は一躍全国区的なものとなる。

きょうの一曲「I Smell Trouble」は、その「Further Up The Road」の直前に出したシングル「Don't Want No Woman」のB面にあたる。

A面よりもむしろ人気が出て、多くのブルースマン、たとえばバディ・ガイ、ジョニー・ウィンターなどにカバーされたこの曲、ブルース・シンガーとしてのブランドの魅力を凝縮したようなナンバーに仕上がっている。

泣きのギター・ソロから始まるスロー・ブルース。なめらかなバリトン・ボイスに時折りハイ・テンションなファルセットを交えて、哀愁に満ちた歌声を聴かせてくれる。

ブルースという音楽は、そのマイナー性、閉鎖的なレイス・ミュージックという性格もあって、歌に関してはわりと素人っぽさ、拙さがまかり通っているところがあるけれど、もちろん、そんな中でもすぐれたシンガーはいる。ブランドはその稀少なひとりだろう。

そう、ブルース・シンガー数々あれど、他のポピュラー音楽の名歌手たちと聴き比べてもまったく聴き劣りのしないシンガーは、BBと、そしてこのブランドくらいだと思っている。

それはやはり、長年、チトリン・サーキットとよばれるネットワークでの巡業を重ね、ライブを極め尽くしたシンガーならではのものだと思う。録音してレコード盤を世に出せれば、即プロ歌手、というものではないのだ。

たった2分半の曲の中に込められた、深い味わい。その歌詞内容も、また実に深い。20代後半にして既に人生の酸いも甘いも噛み分けたようなその歌は、夜ごとのライブの総決算なのだと思う。

人気シンガーたちにも尊敬される、シンガー・オブ・シンガー。そんなボビー・ブランドの、若くして円熟した世界をとくと味わってみてくれ。

この曲を聴く

2013年9月15日(日)

#285 キングス・オブ・レオン「Use Somebody」(Only By The Night/Sony Music)

テネシー州出身のロック・バンド、キングス・オブ・レオン、2008年発表の4thアルバムからのセカンド・シングル。バンドメンバー、カレブ・フォロウィルの作品。

キングス・オブ・レオンは2000年、カレブとネイサン、ジェアドのフォロウィル兄弟と従兄のマシューで結成された、準ファミリー・グループ。

そのサウンドは、今日的なオルタナティヴ・ロックに一応属するといえるが、彼らの出身地は白人・黒人両方の音楽が交錯するテネシー。カントリー、ブルース、R&Bやサザン・ロックなど、過去のさまざまな音楽に影響を受けた、多面性のあるものとなっている。

特にソングライティング、リードボーカルを担当するカレブの歌声に、それを感じとることができる。オルタナ系としては非常にソウルフルな歌なのである。どこか、スティーヴ・ウィンウッドを思わせる雰囲気もある。

きょう聴いていただく「Use Somebody」は、それまでどちらかといえば外国であるイギリスでの人気が先行していたキングス・オブ・レオンが、本国アメリカでも全国区的存在になった一曲。ひとつ前のシングル「Sex On Fire」がビルボードHot100で56位に入っていたが、この曲ではなんと、5位にまで食い込んだのだ。アルバムも、英米ともに100万枚以上の出荷となり、グラミー賞でも3部門を獲得するなど、一躍時のバンドとなったのである。

日本にはすでに2003年、2007年とフェスティバル関係で来日して、少数ながらもファンを獲得していたものの、やはり本格的な人気は、この「Only By The Night」というアルバムがリリースされてから出たと言えよう。

実の兄弟と従兄というだけあって、そのチームワークは実に強固だ。楽器演奏、コーラス、ともに一枚岩の堅固さが感じられる。

バンドの顔、カレブと並んでキングス・オブ・レオンの個性を代表するのが、従兄のマシュー・フォロウィルのギター・プレイだ。セミアコースティック・ギターによる、官能的で粘っこいソロも、聴きものだ。

この秋には3年ぶりの新アルバムをリリースするそうだ。一過性のブームに終わることなく、20年、30年と、息の長い活動を期待したいね。

懐かしさと新しさが、絶妙にブレンドされた、男くさいサウンド。一徹なテネシアン魂を、そこに感じとってほしい。

この曲を聴く

2013年9月22日(日)

#286 ボビー・マクファーリン「Walkin'」(Spontaneous Inventions/Blue Note)

黒人ジャズシンガー、ボビー・マクファーリン、86年リリースのサード・アルバムより。リチャード・カーペンターの作品。

ボビー・マクファーリンは50年ニューヨーク生まれの西海岸育ち。両親はクラシック歌手で、彼も幼少時より正規の音楽教育を受け、ピアノをマスターしている。

20代になりジャズ・ボーカルを志すようになり、ニューオリンズへ修行に。西海岸に戻って、コメディ俳優にして歌手のビル・コスビーの知己を得て、プレイボーイ・ジャズ・フェスティバル(80年)に参加。

これにより一躍注目を集め、東海岸でレコードデビューを果たす。

彼のボーカルスタイルは「ユニーク」と呼ばれることが多いのだが、まずはきょうの一曲を聴いていただければ、その理由がただちに判るのではなかろうか。

「Walkin'」といえば、ジャズファンなら知らぬ者もいない名曲。マイルス・デイヴィス、54年発表のアルバムのタイトル・チューンである。

86年2月28日、ロスの「アクエリアス・シアター」でのライブ録音から。おなじみのテーマをソプラノサックスで吹き始めるのは、ウェザー・リポートの看板男、ウェイン・ショーター。続いてこれにスキャットで絡むのがマクファーリンである。

これがもう、圧巻のひとこと。サックスと声、ふたつの「楽器」が、ありとありとあらゆる音階、持てるテクニックのすべてを駆使して、究極の音空間を構築しているのである。とにかく聴いてみれば、納得が行くはず。

CDアルバムと並行して、ライブステージを収録しているDVDも出ているのだが、そちらを観ると、ほぼマクファーリンの独演会。ゲストミュージシャンはショーターひとりで、あとはマクファーリンのボーカル「のみ」。

主旋律にベースラインを巧みに織り込みつつ、体や椅子をリズミカルに叩きながら歌うマクファーリン。たったひとりで生み出す、その粘っこいグルーヴは「スゴい!」としかいいようがない。

かといって、テクニック一辺倒なわけでもない。客席と和やかなコミュニケーションをとりつつ、ユーモアもふんだんに交えたそのステージングは、いかにも人間臭いのだ。

マクファーリンはこの2年後、映画「カクテル」の挿入歌としても有名な「Don't Worry, Be Happy」を大ヒットさせる。なんと全米ナンバーワンである。

歌、コーラス、口笛、ボイスパーカッション等、すべてを自分の声の多重録音で作り上げたその驚異的なサウンドが、聴き手を感嘆させたということである。でも、ただそれだけじゃ、絶対、ナンバーワンにはなりえない。

マクファーリンの歌にあるユーモア、人間性、人生観、そういったものが、ストレスの溜まった現代人にはオアシスのように感じられたのだ。

音楽は本来、楽しいもの。その原点に常に立ち返って、まるで子供のように自由に歌うマクファーリンがアピールしたのは、むべなるかな。

先端的でときには難解な音楽もやる一方、親しみやすいポップ・チューンも生み出す。この二面性がマクファーリンの魅力といえそうだ。

さて、余談だが、この「Walkin'」の作者、リチャード・カーペンターって誰?って声が上がりそうなんで、ちょっと調べてみた。もちろん、50年代という時代からいって、あのカーペンターズの兄、リチャードってことはありえない(笑)。

実はこの曲、マイルスがサックス奏者ジーン・アモンズの曲「Gravy」からほぼそのまま引用して作ったナンバーだったのである。だったら、アモンズのクレジットが入りそうなもんだが、50年代当時、アモンズのマネージャーをやっていた男が、リチャード・カーペンター。

もちろん曲の書けるミュージシャンではなく、むしろ歓楽街の顔役的な存在で、アモンズの楽曲の権利も、ちゃっかり横取りしていたのだ。ボビー・ブランドとドン・ロビーの関係みたいなもので、いつの時代も自分は苦労せずに人の上前をハネる「音楽ゴロ」みたいなのがいるのであるね。

というわけで、実質的にはアモンズの作品を、ショーターとマクファーリンという鬼才ふたりが奏でた壮絶な一編。ぜひ聴いてみてほしい。

この曲を聴く

2013年9月29日(日)

#287 ザ・パワー・ステーション「Let's Get It On」(Living In Fear/Chrysalis)

ザ・パワー・ステーション、96年リリースのセカンド・アルバムより。マーヴィン・ゲイ、エド・タウンシェンドの作品。

パワー・ステーションは、デュラン・デュランのアンディ・テイラー(g)、ジョン・テイラー(b)がソロ・シンガーのロバート・パーマー、シックのトニー・トンプスン(ds)を誘って結成した、いわゆるスーパーグループだ。

活動時期は二期に分かれ、一期は84年から85年。二期は95年から96年。活動期間はきわめて短かかったが、めざましい活躍ぶりを見せている。

一期ではシングル「Some Like It Hot」「Get It On」がともに全米トップテンに食い込むヒット、アルバム「The Power Station」も全米6位に。この余勢でツアーも行うことになったが、パーマーはアルバム制作のみの参加と考えていたため、降りてしまう。代わりに元シルバーヘッドのマイケル・デ・バレスがツアーのみ参加することになった。

約10年を経過した二期は。セカンド・アルバム「Living In Fear」、シングル「She Can Rock It」をリリース。一期に比べるとセールス的にはかなりジミだったが、音楽的にさらに充実して、健在ぶりを示している。もともと、アルバム一枚こっきりという性格のプロジェクトだったから、予想外の再結成はファンを大いに喜ばせたものだ。

二期はベースのアンディが抜け、一期でのプロデューサーをつとめたシックのバーナード・エドワーズがベーシストをつとめている。アルバム制作にはファーストよりも時間をかけ、スタジオ・セッションというより、事前にじっくりアレンジを考えてから録音されたという。ファーストより音楽的に充実しているというのも、そのへんに理由がありそうだ。

そのアルバムの中でも、異色のチューンがこの「Let's Get It On」だ。

オリジナルのマーヴィン・ゲイ版シングルは73年6月リリースされ、ポップ、R&Bチャートで1位になった、スーパー・ヒット。

タイトルや歌詞の「get it on」という表現は、いいかえれば「make love」といったところ。要するに愛の行為ですな(笑)。

基本、男と女の愛や性について歌った曲だと理解して間違いはないと思うのだけれど、それはそこ、社会派ソウル・シンガーと呼ばれるマーヴィン・ゲイだから、ベトナム戦争の時代に、ラブソングのかたちを借りて世界平和を訴えているのかもしれない。

それはさておきこの曲、一期の「Get It On」みたいなストレートなロック・サウンド、あるいはヘビーなギター・サウンドこそがパワー・ステーションだと思っていたリスナーにとっては意外に感じられそうな、もろ横ノリのユル〜いサウンドであるね。でも、それが結構イケるんである。

パーマーのリードボーカルだけでなく、バックのコーラス・サウンドも充実しており、パワステの音楽的な懐の広さを感じさせる。リズム隊の演奏も、文句のつけようのないくらい、ごきげんだ。

残念ながらこのアルバムの録音後、メンバーでありプロデューサーでもあったエドワーズが急逝している。その後、2003年にはパーマー、トンプスンも亡くなり、パワー・ステーションの再始動は事実上、不可能になってしまった。まことに残念である。

白人と黒人の音楽、その最も「粋(すい)」の部分を融合させた究極のプロジェクト、ザ・パワー・ステーション。すぐれたシンガー、すぐれたミュージシャン、すぐれたプロデューサーと三拍子揃って、まったく死角はない。迷わず聴くべし。

この曲を聴く

2013年10月6日(日)

#288 ビッグ・ママ・ソーントン「Hound Dog」(Hound Dog-Peacock Recordings/MCA)

黒人女性シンガー、ビッグ・ママ・ソーントン、唯一にして最大のヒット。リーバー=ストーラーの作品。

ビッグ・ママことウィリー・メイ・ソーントンは26年アラバマ州アリトンの生まれ。父は牧師、母は教会歌手というお堅い家庭に育った彼女だったが、母の死後10代半ばで家を出て、旅芸人の一座に加わる。

各地を巡業して得意の歌に磨きをかけ、レコードデビューのチャンスを掴む。51年のピーコック・レーベルとの契約である。

最初の2枚のシングルは不発に終わったが、3枚目で大当たりが来た。プロデューサーは同レーベルの看板男、ジョニー・オーティス。そして、リーバー=ストーラーという、当時新進気鋭のソングライティング・チームによって、この「Hound Dog」が生まれたのである。

52年8月に録音、翌年2月にリリースされるや、R&Bチャートに7週トップとなる大ヒット。数々のカバーバージョン、ルーファス・トーマス、ロイ・ブラウンらのアンサーソングを生んだこの曲は、3年後、エルヴィス・プレスリーによって取り上げられ、50年代ロックンロール最大級のヒットのひとつとなった。

レコーディングまでのいきさつや歌詞内容については次にあげる「最初のロックンロール(32)」という記事に詳しく書かれているので、ぜひ読んでいただきたい。ポイントとしては(1)「Hound Dog」は、女性の視点で歌詞が書かれている。(2)性的な隠喩もかなり含まれている、というあたりだろうな。要するに、エルヴィスの歌によって作られたイメージは、歌本来の狙いとはだいぶん違うものだということ。もともとこの曲は、性的に役立たずになった恋人はもういらない、という女性側のシビアなメッセージだったのである。

最初のロックンロール(32)

上記のページを読んでいて興味深かったのは、エルヴィスは直接ビッグ・ママのオリジナルを聴いてカバーしようと思ったわけでなく、フレディー・ベルとベルボーイズ という、ビル・ヘイリー風の白人バンドの演奏を聴いて、それが気に入ったからだという。道理でエルヴィスとソーントンのスタイルがまったく違うわけだ。

オリジナルは、ボーカルとギターの掛け合い色が非常に濃い。ハウリン・ウルフとヒューバート・サムリンの絡みにも通じるものをそこに感じることが出来る。このT・ボーン風の粘っこいギター・プレイは、オーティスのバンドのメンバー、カール・ピート・ルイスによるものだ。

そしてその歌いくちは、ワイルドそのもの。男性ブルースシンガーだって、ここまで思い切ったはっちゃけ方をした例は余り見ない。とにかく最初のフレーズから、聴き手の度肝を抜き、魂を抜き取ってしまう一声なのだ。

エルヴィス・バージョンはカバーとはいえ、いったん白人男性の歌に変換されてしまったバージョンからの引用だから、オリジナルを継承したものとはとてもいい難い。そして、聴き比べてみれば、エルヴィスの歌でさえ「大人しく」感じられてしまうのだ。ソーントンの聴き手の耳を、ハートをゆさぶるシャウトは、いま聴いても十分に衝撃的だ。ぜひ一聴を。

この曲を聴く

2013年10月13日(日)

#289 デレク・アンド・ドミノス「Key To The Highway」(Live at the Fillmore/Polydor)

デレク・アンド・ドミノス、70年10月、フィルモア・イーストでのライブ・アルバムより。ビッグ・ビル・ブルーンジー、チャールズ・シーガーの作品。

エリック・クラプトン率いるデレク・アンド・ドミノスは70年春に結成、同年11月デビュー・アルバム「Layla and Other Assorted Love Songs」がヒット。ライブ・アルバム「In Concert」を73年1月にリリースしているが、その頃には既に活動を終えていた。バンドの実質的な活動期間は2年にも満たなかったのである。

筆者が考えるに、ドミノスはクラプトンにとってパーマネントなグループというよりは、デラニー&ボニーのころからの付き合いのあったミュージシャンを集めて取りあえず作ってみました、という感じの「当座のバックバンド」であったのだろう。もちろん、メンバーの腕前はいずれも折り紙付きではあったが、これから彼らとずっと続けていこうという強い意志があったわけではなく、いわば、セッション的な集合だった。ところが、レコードはバカ売れしてしまった。

きょうの一曲、「Key To The Highway」は「Layla〜」にも収められているおなじみのブルース・ナンバー。「In Concert」では省かれていたが、94年のライブ盤「Live at the Fillmore」には収録されている。これを聴き、かつスタジオ版のそれと聴き比べてみると、デレク・アンド・ドミノスのそういった裏事情がよくわかるのではなかろうか。

「Layla〜」は70年8月から9月にかけてのスタジオ録音。対する「Live〜」は10月の録音。ほとんど同時期といっていい。11月のアルバムデビューに先駆けての前宣伝的なライブ、といって間違いではないだろう。

しかし、その音楽的な充実度からいえば、両者には歴然としたへだたりがある。賢明なる皆さんなら、いわなくてもわかるだろう。そう、デビューアルバムでのゲスト・プレイヤー、デュアン(デュエイン)・オールマンの存在の有無である。

デレク・アンド・ドミノスにおいて、オールマンはあくまでも「ゲスト」であった。デビュー・アルバムの全曲でフィーチャーされていようが、けっしてメンバーではなかった。

しかし、彼のプレイはあまりにも素晴らしすぎた。ゲストどころか、主役を食って自分が主役になってしまった、そんな感じだった。

つまるところ、アルバム「Layla〜」の成功は、オールマンの参加こそが決め手であった。

ふたりの個性の異なるギタリストの、息をもつかせぬ駆引き、食うや食われるやの闘い。このスリリングな掛け合いこそが「Layla〜」の、デレク・アンド・ドミノスの魅力だったのに、オールマンはメンバーでない。これがこのバンドにとっては、最大の問題点だった。

それは、クラプトンのみならず、他のメンバーも十分に気づいていたことのようで、「オールマン抜きの4人でやってもダメだ」という雰囲気があったらしい。

実際、ライブでも2ステージだけオールマンを加えてやったことがあり、その後正式にバンド加入を頼んだという。しかし、返事は「ノー」だった。自分自身のバンドを離れてまで、クラプトンと一緒にやろうという意思は、オールマンになかったのだ。これがまた、バンド内の人間関係を悪化させた。

71年、2枚目のスタジオ・アルバムを制作中、ドラムのジム・ゴードンとクラプトンが激しい口論となり、録音は中止、バンドは解散となった。

その後、メンバーの大半は悲劇的な人生を歩むようになる。オールマンは71年11月に交通事故死。クラプトンはジミ・ヘンドリクスやオールマンの相次ぐ死にショックを受けて、ドラッグ漬けに。その後、復活までに相当の歳月が必要となった。ベースのカール・レイドルは80年、アルコールとドラッグ中毒のため37才で死亡。ゴードンもドラッグ中毒、統合失調症となり、殺人罪を犯す。ああ、なんという不幸の連鎖だろう。

彼らの生み出した素晴らしい音楽とは裏腹に、多くのメンバーの心身は救いようもないくらい、蝕まれていたのである。

そういう事実を知ったうえで聴くと、聴きなれたはずの彼らの演奏も、さまざまな感慨を呼び起こしてくれる。

ライブ版「Key To The Highway」は、スタジオ版のそれからオールマンが抜けた分、全編、完全にクラプトンをフィーチャーしたアレンジになっている。

他のメンバーは完璧にバッキングに徹しており、ギターの掛け合いがない分、ピアノ・ソロでも入れたらよさそうなものなのに、それもなし。とにかくクラプトンが弾きまくるのみ。

それでも、クラプトンの盲目的なファンなら万々歳だろう。が、筆者を含む大半のリスナーは、スタジオ版を既に聴いてしまったばかりに、それに比べるとちょっと単調だなという感想はどうしても抱いてしまう。

クラプトンのギター・プレイだって、十分にカッコいいのだが、スタジオ版の、あのうねるようなグルーヴは、そこにはない。

贅沢を言うようだが、リスナーは最良のものを知ってしまった以上、それに次ぐものでは満足できないのである。

いきなり最初に「Layla〜」という未曾有の傑作が出来てしまったことが、彼ら、デレク・アンド・ドミノスの至福であったと同時に、その後の活動の一番の足かせとなったのは、間違いない。プロフェッショナルとしては、常に「Next One」を最高の出来としていかねばならないのだから。

決して悪い出来ではないこの「Key To The Highway」も、でも最高とは評価されない。げに、ミュージシャンとは、因果な商売であるね。

この曲を聴く

2013年10月20日(日)

#290 ネーネーズ「黄金の花」(コザdabasa/Ki/oon Sony)

筆者は先日、沖縄旅行にいってきたのだが、那覇市内のライブハウス「島唄」に寄る機会があり、そこでこの懐かしい「ネーネーズ」の曲(1994年リリース)を聴いたのだった。

ネーネーズといえば、1990年代に活躍していた沖縄出身の女性ボーカルグループだ。90年に、沖縄民謡界の重鎮、知名定男のプロデュースにより世に送り出された。インディーズ盤のアルバム「IKAWU」で注目され、キューン・ソニーよりメジャーデビューして、「黄金の花」ほかいくつかのヒットを出した。

「23年前にデビューしたネーネーズが、そのまま今も活動を続けているの?」と思ったが、実はそうではなく、完全にメンバーを入れ替えて、現在も活動を続けているとのことだった。

結成当初のメンバーは、99年11月で解散。新たに集められた第二期のネーネーズも、2003年で解散しており、現在は2003年のオーディションで採用された4人から、さらに交代を繰り返して、以下のメンバーとなっている。

上原渚(2004年1月〜)、比嘉真優子(2009年4月〜)、保良光美(やすらてるみ、2010年1月〜)、本村理恵(2012年6月〜)。いずれも沖縄本島や、石垣島出身の20代(推定)女性である。

初代のネーネーズは、見た目も歌いぶりも落ち着いたオトナの女性というイメージがあったが、「島唄」のステージに登場した4人は、ギャルっぽい格好をしても似合いそうな、若さあふれるネーネーという感じだった。

ライブでは、沖縄民謡や他のアーティストのカバー、そして初代以降引き継いだオリジナル・ナンバーを、ときには三線、太鼓などを演奏しながら、力強く歌い上げてくれた。

もちろん、声の質などは初代とはだいぶん違っていて、いかにも「若い」「青い」印象であった。過去のネーネーズのファンにしてみれば、「全然違うグループになった」といわれてもいたしかたないだろう。

と、ここまで書いてきて「ん?」と既視感をおぼえた。こういうケースが他にもあったような。そう、ほかならぬ「モーニング娘。」である。

グループデビューとしてはネーネーズのほうがうんと先輩であるが、いずれもメジャーなガールズグループ。この手のグループはかつて(おニャン子クラブなどのように)しばらく活動しているうちにメンバーの年齢が上がってきて、頃合いを見て解散するのが常だったのだが、ネーネーズも、モーニング娘。も、それをやらなかった。ネーネーズのほうは正確にいえば、解散はしたが次のメンバーを準備しており、ブランド名はそのまま残した。モーニング娘。のほうはご存知の通り、スタート時のメンバーはもはや誰もいないが、曲はすべて引き継いで、年若い新メンバーで活動している。

こういう、たとえメンバーが総入れ替えになっても「継続」していくというやり方は、おそらく宝塚歌劇団に範を求めたのだろうが、筆者的にはいいことなんじゃないかと思う。

過去ヒットした名曲を、オリジナルで聴くのもいいが、いま現在活躍しているひとによるバージョンで聴くのも、悪くない。いまならではの新しい個性が、そこにはあると思うのだ。

いまのネーネーズは完全にインディーズに戻っているが、プロデューサー知名定男氏としては、むしろワールドワイドなアーティストを目指しているという。それこそモーニング娘。のように。

その特徴ある髪型、コスチューム、そして沖縄サウンドは、まぎれもなくオリジナルな世界である。借り物の西洋音楽モドキではない。インターネットの時代、youtubeに載るなどちょっとしたことが切っ掛けで大ブレイクすることもありうるだろう。

今後は、しばらくメジャーリリースがされていないシングル曲を、いかに生み出してヒットさせていくかが、ポイントだろうね。

もちろん、現在の観光名物的なネーネーズ、「会えるアイドル」的なネーネーズでも、十分すばらしいとは思う。国際通りの半ばにある「島唄」に行けば、週に4、5日は、彼女たちの生歌が聴けるのだ。

沖縄旅行の折りには、ぜひ、彼女たちのライブを観に行ってほしい。ステージの合間には観客席に挨拶に来てくれたり、記念撮影に応じてくれたり、とてもサービス精神満点なネーネーたちなのである。

きょうの一曲は、いまのネーネーズ版ではないのだが、第一期バージョンの「黄金(こがね)の花」。その息のそろった、それでいて各メンバーの微妙な声質の違いが、響きに深みを与えている、見事なユニゾン・コーラスを味わってほしい。そして、今のメンバー版の若々しい個性は、直接ステージで聴いて、確かめてほしいのである。

ネーネーズ、ちょうど今月28日には埼玉・大宮の「うさぎや」、30日・31日には東京・小岩「居酒や こだま」でも上京ライブをするという。沖縄まで足を運ばなくても彼女たちを観られる絶好のチャンスだ。興味のあるかたは、ぜひ。

この曲を聴く

2013年10月27日(日)

#291 小林万里子「朝起きたら・・・」(ファースト・アルバム/フォーライフ)

シンガー・ソングライター、小林万里子のデビューシングル曲。小林自身のオリジナル。

小林万里子という名前を覚えている人は少ないと思うが、関西弁の「朝起きたら・・・」という印象的なフレーズで始まるこのブルースを覚えている人は、結構いるのではないかな。

これは、小林万里子が1978年にメジャーデビューした時のシングル。下記のyoutubeの音源はファースト・アルバムのB面、ライブステージ・バージョンとなっているが、オリジナルは石川鷹彦がアレンジを担当している。

小林は54年、神戸生まれ。お嬢さん学校の神戸女学院を卒業して、早稲田大学に入るも、とある家庭の事情から(同じく上京した実兄から、いまでいうところのDVを受けていたらしい)2か月で辞め、翌年神戸大学に再入学。

神戸大では軽音楽部に入り、曲作りを始めるが、下ネタの歌が多かったため、品のいいサークル内では浮いた存在だったという。

自作曲のデモテープをフォーライフレコードに送り、採用される。それがこのデビュー曲だったのだ。

見た目はフツーの四大卒の女性が、(おそらくは)自分の性体験をあけっぴろげに、自虐ユーモアをてんこ盛りにして、しかもダウンホームなブルース曲として歌うという彼女の個性は、当時際立っていた。

曲は発表されるや、おもに有線放送、深夜放送の世界で話題となり、リクエストが殺到。あざやかなクリーンヒットになった。

この勢いでセカンド・シングル「れ・い・ぷ フィーリング」をリリースしたのだが、ここでつまづいた。前作以上にキワドい歌詞が問題となり、放送禁止の扱いを受けてしまったのだ。

つまり小林の歌詞は単なるセクシーソング、下ネタソングというよりは、社会の矛盾、不条理に対するプロテストとして書かれたもので、事なかれ主義のマスメディアになじむものではなかったのだ。

その後、80年には井上陽水のプロデュースにより「すんまへんのブルース」、81年には「ファースト・アルバム」をリリースするも、またもや過激な歌詞内容が問題となったのか、アルバムは販売ルートに乗らず、幻の封印作品となってしまう。

この処分により、小林はメジャー活動の芽を摘まれ、82年には引退。以降、10年以上のブランクが続いたのである。

しかし、転んでもタダでは起きないのが、関西女のど根性。93年からは、地元関西を中心に草の根的な音楽活動を続け、過去のアルバムも再発し、また2011年にはニュー・アルバムをインディーズからリリースするなどして、現在に至っているのだ。

実は筆者は、先日大阪に行って、彼女のライブを初めて見て来た。

今年59才になる小林は、見た目は年相応のオバチャンになっていた(失礼)。が、歌い始めるや、場の空気が一変した。

声がまさにブルースなのだ。少し低めで、深みのある声質。日本人の女性ではなかなか聴けない、独特のニュアンス、フィーリングを持ったシンガーだと筆者は感じた。

お嬢さん育ちで、学力優秀、有名大学にも通っていた彼女が、なぜブルースのような被差別民族の歌をうたうようになったのか、疑問に思う人もいるかもしれない。それは、彼女のロング・インタビューがネット上にも掲載されているので、じっくり読んでいただきたい。

フェミドルに聞け!歌手小林万里子さん

中学に入学した頃から強度の不眠症に悩まされ、「太っている」「かわいくない」という理由から実の兄よりずっとDVを受けてきたという彼女、そういうやり場のない彼女の魂を救ってくれるのは、ブルースという音楽だけだったのである。筆者も、彼女と似たような境遇だっただけに、それは非常に共感をおぼえるのだ。

悩み、苦しみを笑いに変えて吹き飛ばす、底抜けのパワーを、ブルースは彼女に与えてくれたのである。

筆者が訪れた大阪のライブバー「シカゴロック」では、小林は実にのびのび、イキイキと「絶対マスメディアにはのらない歌」の数々をうたい倒していた。皇室ネタ、薬物中毒の芸能人ネタ、政治ネタ、ハゲネタ、そしてもちろん定番の下ネタ。メジャーを離脱したことをむしろ強力な武器として、言いたい放題、やりたい放題のライブだった。

もちろん、笑いや風刺だけでなく、音楽としてもじゅうぶん魅力に満ちた艶やかな歌声がそこにはあった。これぞ、ホンマモンのブルースウーマンやで。

東京ではまず聴くことが出来ないが、一聴の価値はある。皆さんも、大阪に行く機会があれば、事前にライブスケジュールをチェックして、ぜひ彼女を聴きに行ってみて。ノリノリ&抱腹絶倒、ヤミツキになるのは間違いない。

「浪花のジャニス」の異名も、ダテじゃない。ホント、そう思うよ。

この曲を聴く

2013年11月3日(日)

#292 ジョン・スコフィールド&ドクター・ジョン「Please Send Me Someone To Love」(Live 3 ways(DVD)/Blue Note)

ジャズ&フュージョン・ギタリスト、ジョン・スコフィールドと、ピアニスト、ドクター・ジョン。90年5月ニューヨークでの共演ステージから。パーシー・メイフィールドの作品。

スコフィールドは51年、オハイオ州デイトン生まれ。バークリー音楽院を出て、プロのミュージシャンとなる。

ビリー・コブハム、ジョージ・デューク、パット・メセニー、ゲイリー・バートン、日野皓正・元彦兄弟、チャールズ・ミンガス、デイヴ・リーブマン、マイルス・デイヴィスなどのトップ・アーティストと共演、一方で自身のグループを率いて活動を行う。プロ歴既に39年、いまや押しも押されもしない、ジャズ&フュージョン・ギターの大御所のひとりといっていいだろう。

独特のエフェクター音を効かせた、セミアコースティック・ギターでのハードなプレイは、多くのフォロワーを生み出してきた。貴方も、そのひとりかもしれない。

さてきょうの一曲は、バンド形式でなく、ピアノとのデュオ。おなじみ、ニューオーリンズの守護神的存在のピアニスト/シンガー、ドクター・ジョンとの共演である。

実はスコフィールドは、地方色豊かなN.O.サウンドとも、縁浅からぬ関係にある。

84年に移籍したレーベル、グラマヴィジョンでは従来のジャズ系とは異なったサウンドも自由に取り入れ、そこでの最終作「Flat Out」では、N.O.のドラマー、ジョニー・ヴィダコヴィチと共演、ミーターズの「Cissy Strut」などを演奏している。その後、2009年にはN.O.でアルバム「Piety Street」をジョン・クリアリー、ジョージ・ポーター・ジュニア、ジョン・ブッテらと共にレコーディング、ゴスペル色の強いサウンドを披露している。

近年のスコフィールドには、単に受け身で聴くだけでなく、グルーヴがあって踊れる音楽を創り出そうとする姿勢が、強く感じられるのだ。

そういう風に見ていくと、この一曲も非常に興味深い。

もともとこの「Please Send Me Someone To Love」は、黒人シンガー/ソングライター、パーシー・メイフィールドが、50年にスペシャルティからリリースし、大ヒットさせたナンバー。R&Bチャートで1位を獲得しただけでなく(27週チャートイン)、総合でも26位にまで昇りつめたという、堂々たるヒット曲なのである。

メイフィールドについては本HPでも、以前フレディ・キングやベター・デイズを「一日一枚」で取り上げたときに軽くふれたという記憶があるが、なかなかいい曲を書くライターである。特にこの「Please Send Me Someone To Love」のようなブルース・バラードを書かせると、天下一品の出来映えだと思う。

歌詞内容について簡略に述べておくと、「天よ、願い過ぎでないとすれば、どうかわたしにも愛する人を与えておくれ」という神への祈りなのだ。ある意味、ゴスペルだよね。

作者メイフィールド以外では、フレディ・キング、ポール・バターフィールド率いるベター・デイズ(ボーカルはジェフ・マルダー)のカバー・バージョンが、筆者の印象に強く残っている。また、永井ホトケさんも彼らの影響を受けて、日頃愛唱している。

今回、スコフィールドとドクターは、歌わずにインストのみでこの曲をプレイしているのだが、シンプルながら非常に密度の濃い内容で、聴く者を唸らせてくれる。

いわゆるジャズ的なフレーズはほとんど使わず、オリジナルのブルージィなメロディを尊重したスタイルで直球一本勝負!なスコフィールド。ふだんの彼の演奏スタイルからは、かなり離れている。が、これもまた沢山ある、彼の引き出しのひとつなのだ。

フレディ・キングが、ジェフ・マルダーが高らかに声を上げて歌ったように、スコフィールドは愛器を駆使して、まさに「歌いあげている」。これだけ、人間の歌声(ボーカル)に肉迫した表現は、なかなかないというぐらい、いい味を出している。

その後を受けて、ソロを弾くドクター・ジョン。こちらも特にけれんはないが、その淡々としたプレイを聴けば、せつなく、しみじみとした思いにひたることは間違いない。

職人のような二人の、原曲へのリスペクトにあふれた演奏を聴いたら、もう一度、メイフィールドの渋みのある歌声を聴きたくなってしまった。

かのレイ・チャールズも大のひいきで、「旅立てジャック」などの提供曲を好んで歌っていたソングライター、パーシー・メイフィールド。その最高傑作は、60年以上の歳月などものともせず、今も輝いているのである。

この曲を聴く

2013年11月9日(土)

#293 ジョン・リー・フッカー&ヴァン・モリスン「Never Get Out of These Blues Alive」(Never Get Out of These Blues Alive/ABC)

ジョン・リー・フッカー、72年のアルバムより。フッカー自身の作品。

カントリー・ブルースの大御所、ジョン・リー・フッカーは70年代に入ると(彼は当時50代)、ロック系のミュージシャンとも頻繁に共演するようになる。その先駆けがキャンド・ヒートと共演した70年のアルバム「Hooker 'N Heat」だが、続いて72年にはヴァン・モリスン、エルヴィン・ビショップ、チャールズ・マッセルホワイト、スティーヴ・ミラーらと共演したこのアルバムをリリースし、話題となっている。

アルバムの最後を飾る、10分15秒にも及ぶ長尺のスローブルースが、このタイトルチューンだ。

アルバムの4分の1強を占めるその長さにも驚くが、なんといってもこの曲、タイトルがスゲーよな。もう、底なし沼か、無間地獄の世界(笑)。

曲調はタイトルほどはおどろおどろしくなく、むしろ淡々とスタジオ・セッションが進行するというスタイルなのだが、とにかく主役ふたりの個性がエグい。

かたや、クセ者ぞろいの黒人ブルース界でもひときわ異彩を放つ、元祖激ワルオヤジ。かたや、ブルーアイド・ソウルの最右翼的存在のシンガー。この孤高のふたりが、タッグを組んだのだから、その迫力はハンパではない。

ドスをきかせたフッカーの低い声と、少し高めでシャープなモリスンの声が絡み合い、異様なまでにドロドロとしたブルースが展開される。

ふつう、スローブルースは、ギターやキーボードの長いソロをフィーチャーすることが多いが、本曲では、最初から最後までフッカーとモリスンの歌がフィーチャーされ、いつ終わるともしれない。ふたりの遣り取りが10分以上続くのである。これはスゴい。

このふたりは本当にソウル・ブラザー的な仲だったようで、その後何枚ものアルバムで共演、97年の実質的なラスト・アルバム「Don't Look Back」に至るまで、強力なタッグを組み続けていた。まさに、最強のオヤジ・デュオだな。

この曲、バックをつとめるエルヴィン・ビショップ(スライド・ギター)をはじめとする白人ミュージシャンのナイス・サポートもあり、ダレを感じさせないビシッとしたトラックに仕上がっている。

たかがブルース。されどブルース。歌い手の個性こそが、ブルースにとって一番重要であることを痛感させるナンバーだ。底なしブルースの深淵を、この一曲に感じとってくれ。

この曲を聴く

2013年11月16日(土)

#294 セシリア・ノービー「Girl Talk」(Caecilie Norby/Blue Note)

デンマークの女性ジャズシンガー、セシリア・ノービーのデビュー・アルバムより。ニール・ヘフティ、ボビー・トゥループの作品。

ノービーは64年、フレデリクスベルグ生まれ。音楽一家に育ち、ジャズ/ロックバンド、フロントラインに参加、その才能を米ブルーノート・レーベルに認められ、95年にアルバム「セシリア・ノービー」で世界デビュー。現在までに7枚のスタジオ・アルバム、1枚のライブ・アルバムをリリースしている。

彼女はジャズ・スタンダードを歌う一方で、ポップ/ロック系の曲も作り、自ら歌う。非常に幅の広い音楽性の持ち主なのだ。

おそらく、まだほとんどのかたは、彼女の歌を聴いたことがないだろうから、まずはきょうの一曲「Girl Talk」で、彼女の歌声にふれてみて欲しい。

いろいろな国の言葉で語られる、若い女性のとりとめのないおしゃべり、つまり「Girl Talk」をイントロにして、少しテンポの早いスウィンギーなナンバーを、ノービーはよどみなく歌う。

いかがかな。アメリカの女性ジャズシンガーとはかなり趣きの異なった歌い方だと、感じられたかもしれない。

セクシーというよりは、知的で優雅といったほうがぴったりの、落ち着いた歌声だ。いかにもヨーロッパ的なんである。それも北欧。

ブルースとゴスペルとか、ほとんどのアメリカの女性ジャズシンガーには共通して存在するバックグラウンドがヨーロッパ出身の彼女にはないぶん、だいぶんあっさりしたジャズになっているような気がする。

ところで、この曲について、少し解説しておこう。

「Girl Talk」は、65年の米映画「ハーロウ」の主題曲として、ニール・ヘフティ、ボビー・トゥループにより書かれた。「ハーロウ」は、26才で夭折したセクシー女優、ジーン・ハーロウの生涯を、キャロル・ベーカーが演じた映画。その音楽を、カウント・ベイシー楽団のアレンジ、「バットマン」のテーマ曲などで知られる作編曲家、ニール・ヘフティが担当し、歌詞を「ルート66」の作者として著名なシンガー/ピアニスト、ボビー・トゥループが書いたのである。

ヘフティ、トゥループともに非常に優れたミュージシャンであり、その生み出した曲には名曲が多い。彼らについて書けばとても長くなってしまうので、それはまた別の機会にしたいが、このふたりのコラボによる「Girl Talk」が、ポップス史上に残る名曲であることは、間違いないと思う。

多くのシンガー、たとえばトニー・ベネット、バディ・グレコ、エラ・フィッツジェラルド、フォー・フレッシュメンらにカバーされ、そのいずれも名唱とのほまれが高い。

世間的にはあまり知られていないが、筆者的には、フィリピン出身のサックス奏者、ジェイク・コンセプションによるバージョンもけっこう気に入っている(2005年1月30日の「一日一枚」参照)。

「ルート66」を聴けばよくわかるように、ボビー・トゥループの作る歌詞は、メロディ・ラインへの乗り方、そのリズム感覚が抜群にカッコいいのである。これは、並大抵のソングライターには真似の出来ないワザであるな。

「Girl Talk」ももちろん、小粋で洒落た曲に仕上がっている。メロディ、歌詞ともに、シンガーに「一度はこの曲をうたってみたい」と思わせる魅力に溢れているのである。

通常は、スローテンポで演奏されることが多いこの曲を、軽快なテンポで歌ってみせたというのが、ノービーのオリジナリティといえそうだ。実に都会的でハイセンスな仕上がりになっている。

その確かなボーカル・テクニック、たとえば高音、中低音のたくみな使いわけを聴けば、彼女の実力の高さがわかるだろう。

聴く者の「情」というよりは「知」の部分に訴えてくるタイプの歌声。人により好みは分かれると思うが、今後もジャズ・ボーカル界を牽引していく存在であろうことは間違いない。ぜひ、チェックしてみて。

この曲を聴く

2013年11月23日(土)

#295 ラウル・ミドン「State Of Mind」(State Of Mind/Manhattan Records)

アメリカのシンガー/ギタリスト、ラウル・ミドンのメジャーデビュー・アルバムより。ミドン自身の作品。アリフ・マーディン、ジョー・マーディンのプロデュース。

ラウル・ミドンは66年、ニューメキシコ州生まれ。アルゼンチン出身の白人の父、黒人の母をもつ。未熟児として生まれ、生まれながらの全盲となる。母が早世したため、父に育てられる。

5才でパーカッションを始めて音楽に目覚め、その後アコースティック・ギターを弾くようになる。

マイアミ大学に進学、ジャズを専攻。卒業後は、ジェニファー・ロペス、フリオ・イグレシアス、シャキーラ、アレハンドロ・サンツといった、おもにラテン系ミュージシャンのバック・シンガーをつとめるようになる。その一方で、バーやクラブでソロの弾き語りもやっていた。

本格的なソロ活動は、2002年にニューヨークへ移住してからだ。スパイク・リー監督の映画「セレブの種」の音楽に自作曲を提供したことで注目され始め、ジェフ・ベックの前座をつとめてベックに絶賛されるなどクロウト筋の評価も高かった。

2005年、ハービー・ハンコックのアルバム「Possibilities」制作に参加。スティービー・ワンダーの「I Just Called to Say I Love You(心の愛)」を歌い、ハーモニカ担当のワンダー本人とも共演するというビッグ・チャンスを獲得する。

また同年、マーディン父子(ノラ・ジョーンズなどのプロデュースで著名)のプロデュースでメジャーデビュー盤「State Of Mind」をリリース。こちらでもワンダーと共演している。

さて、ミドンのサウンドの説明は、やはり実際の曲を聴いていただくにしくはない。まずは、ライブステージの模様を観ていただこう。アルバムのタイトルチューンの、ロングバージョンである。

皆さん、聴いてみて、たちまち度肝を抜かれたのではないだろうか。

伸びやかでソウルフル、ワイドな声域をもつボーカルは、まずまずの出来ばえ。ワンダーに大きな影響を受けただけあって、非常に似た雰囲気をもっている。

が、それだけじゃない。スラップ・ギターともよばれるパーカッシブなギター・プレイがまずスゴい。そのリズム感の絶妙さは、さすがパーカッションを幼少時からやって来ただけのことはある。

そして、ボイス・トランペットとよばれる、ボーカルでのトランペット風アドリブ。これまた、ハンパでなくカッコよろしい。リズム、メロディ、ハーモニー。いわば、一人だけで全てのサウンドを構築できる、究極のソロ・プレイヤーなのだ。

先日取り上げたボビー・マクファーリンもスゴいソロ・プレイを聴かせてくれたが、ミドンも負けず劣らず、余人に真似の出来ない世界を創り出している。真の才能とは、こういったものを指すんだろうなあ。ホンマ、脱帽もんやで。

彼の音楽には、白人系、黒人系、ラテン系、ジャズ、ソウル、ファンク等々、ありとあらゆるアメリカン・ミュージックの要素が、混在している。基本はソウルフルな音楽だが、その要素を解析することが愚かしく思えるほどに、なんでもありな「ミドン・ミュージック」なのである。

「State Of Mind」リリース後は2年に1枚ほどのペースでアルバムを発表、日本にも何回かライブで訪れている。この11月30日から12月2日には、カメルーン出身のフュージョン・ベーシスト、リチャード・ボナとともにブルーノート東京のステージに立つことになっている。

この顔ぶれだから、最少人数でも、ものスゴいサウンドを聴かせてくれることは、間違いなさそうだね。

盲目であること、またその歌声の印象から、「スティービー・ワンダーの再来」とよばれること専らのミドンだが、ワンダーの単なるフォロワーってレベルではない。新しい時代の音楽を生み出す旗手たりうる、10年にひとりぐらいの逸材だろう。ミドンのこれからの活動、目が離せないぞ。

この曲を聴く

2013年12月1日(日)

#296 ボビー・ウーマック「Lookin' For A Love」(The Best of Bobby Womack/Capitol)

ソウル・シンガー、ボビー・ウーマック、62年のファースト・ヒット。J・W・アレキサンダー、ゼルダ・サミュエルズの作品。

ボビー・ウーマックは44年、オハイオ州クリーブランド生まれ。兄弟のセシル、ハリー、カーティス、フレンドリーとともにウーマック・ブラザーズというゴスペル・グループを結成、リード・ヴォーカルを担当。トップ・シンガー、サム・クックに歌の才能を認められ、彼のプロデュースした「Somebody's Wrong」で61年デビュー。

この曲はヒットしなかったが、翌年ヴァレンティノスと改名しての第一弾シングル、この「Lookin' For A Love」がスマッシュヒット(R&Bチャートで8位)して、一躍注目される。

64年のヒット「It's All Over Now」はローリング・ストーンズにもカバーされ、全英1位のヒットになった。こちらはボビー&シャーリー・ウーマックの作品。ボビー・ウーマックはソングライターとしても一流なのである。たとえば、ジョージ・ベンスンのヒット曲「Breezin'」はもともとウーマックの作品だ。実にキャッチーで美しいメロディを多数生み出しているのだ。

それにしても、デビューして50年以上のキャリアをもつにもかかわらず、彼は日本ではあまり話題に上ることがない。数々のヒットをもち、カバーされることも多く、ストーンズ、ロッド・スチュアート&フェイセズ、マライア・キャリーといったフォロワーたちをもっているのにもかかわらず、である。ちょっと残念だ。

たしかに、サム・クック、オーティス・レディング、マーヴィン・ゲイといったソウル・シンガーたちが、早世したことも後押しとなって神格化され「伝説」となったが、彼には特にそういったカリスマ性、天才性は、ない。

だが、こうも言えるのではなかろうか。ボビー・ウーマックは長く生き続けることで、常に時代と切り結び、最新の音楽を生み出し続けることが出来たのだと。

彼はシンガーソングライターとしてだけでなく、ギタリストとしても才能を示し、ソロ活動の一方でジャニス・ジョプリン、スライ&ザ・ファミリー・ストーン、ロン・ウッド、ストーンズなどのアルバム制作に参加するなど、70年代以降も健在ぶりを示している。2009年には、ロックンロール・ホール・オブ・フェイムに殿堂入り。

昨年には、18年ぶりのスタジオ・アルバムをリリースしており、今後も、トップ・シンガーとしての活動が期待できそうだ。

さて、きょうの一曲。ウーマックは74年にソロでも再ヒット(R&Bチャートで1位)させており、これを聴いていただこう。あわせて、ヴァレンティノスのオリジナル・レコーディング版もどうぞ。

ウーマックの特徴ある塩辛声が印象的な、底抜けに明るいナンバー。ひたすらノリが良く、ダンサブルだ。

師サム・クックが得意だったネアカなソウル・ミュージックを引き継ぎ、聴く者をみなハッピーにさせるシンガー、それがボビー・ウーマックなのだ。。

神がかりではなくつねに一般の人々と共にいる、民衆派シンガーの歌声を、楽しんでくれ。

この曲を聴く

62年のオリジナル版

2013年12月7日(土)

#297 ポール・ウェラー「Peacock Suit」(Heavy Soul/GO! Discs)

英国のシンガー/ギタリスト、ポール・ウェラー、97年のヒット・ナンバー。ウェラー自身の作品。

ポール・ウェラーは58年英国サリー州ウォキングの生まれ、今年55才である。

60年代英国のモッズ・ブーム、ビートルズに大きな影響を受けてバンドを始める。77年に「ザ・ジャム」のメンバーとしてデビュー。ザ・ジャムは英国一の人気バンドに成長するも、82年に解散。

その後、ミック・タルボットと共にザ・スタイル・カウンシルを結成して、83年から90年まで活動。しばらくインディーズ活動を続けた後、92年ファースト・ソロ・アルバム「PAUL WELLER」でメジャー復帰する。

以降は、2年に1作程度のペースでアルバムをリリース。派手なヒット曲こそないものの、堅実なセールスを見せている。

ウェラーは現在、オアシス、ストーン・ローゼズ、ブラーといった後続世代のロックバンドから根強い支持、リスペクトを集めているという意味でも、ブリティッシュ・ロックの大御所、あるいはゴッドファーザー的な存在になっているといっていい。

きょうは、そんな彼が39才のとき出した4枚目のアルバムから、ソロとしては最大のヒット・チューン(全英5位)を聴いていただこう。

ザ・ジャムはとにかく若くて活きのいいロックバンドというイメージだったし、スタカンでは一転してお洒落で多様性のあるポップというイメージだった。

だが、ソロになったウェラーは、とてもシンプルでけれん味のない、ストレートなロックを追求するようになった。

スタカン時代の、だいぶん小洒落てて妙にコマーシャルな音に比べると、いかにも武骨でゴツゴツとしたサウンドだ。でもその「原点回帰」は、けっして悪くない。

テクニカルな音に走らず、あくまでも彼のソウルフルな歌声を前面に押し出したバンド・サウンドは、いろいろ要素を盛り込み過ぎて焦点を失ってしまったスタカンに対して、まったくブレがない。

過去のナンバーワン・バンドとしての人気、それはミーハー的な要素が強かったが、そういうものから脱却して、ようやく自分が本当にやりたかった音楽に、取り組めるようになったんだろうな。

最近は髪もすっかり白くなり、往年のイケメンぶりと比べるとだいぶん老けてしまった感はあるが、それでもSGをかきならしてライブ演奏するウェラーは、まだまだ十分にカッコいい。

やっぱり、ロッカーはいくつになってもイケてなきゃ、ね。

バンドというよりは、その都度気に入ったミュージシャンたち(ほとんどが、彼よりは下の世代だ)を選抜して、彼らをバックに歌い続けるロッキン・ダディ、ポール・ウェラー。

筆者とほぼ同世代ながらこのカッコよさ。負けちゃいられねえなと、ウェラーを観るといつも感じる。

フォーエバー・ヤングな彼の、気合いに満ちたシャウト、そしてイカしたギター・プレイを聴いてくれ。

この曲を聴く

ライブ版

2013年12月15日(日)

#298 ジョニー・テイラー「Who's Making Love」(Who's Making Love/Stax)

ジョニー・テイラー、68年の大ヒット曲。ホーマー・バンクス、ベティ・クラッチャー、ドン・デイヴィス、レイモンド・ジャクスンの共作。

このコーナーでジョニー・テイラーを取り上げるのも、これで三回目になる。これまではブルース・シンガーとしてのテイラーにスポットを当ててきたが、今度はソウル・シンガーとしての彼も取り上げてみたい。

38年、アーカンソー州クロフォードビルに生まれたテイラーは、53年にシカゴのドゥ・ワップ・グループ、ファイブ・エコーズの一員として初のレコーディングをしている。

以来、ハイウェイQCズ、ソウル・スターラーズで63年まで活動。一時引退して牧師をしていたが、65年に復帰、メンフィスのスタックス・レコードと契約、本格的なソロ活動のスタートを切る。そしてこの「Who's Making Love」で大ブレイクを果たすのである。

R&Bチャートで1位、総合でも5位。テイラーは一躍、全国区スターになる。

その後、スタックス時代には「Jody's Got Your Girl and Gone」「I Believe in You(You Believe in Me)」の2曲でR&Bチャートのトップをとっている。

まさに、スタックス期は彼のソウル・シンガーとしての、黄金時代だったのである。

75年末にスタックスが倒産した後は、コロムビアに移籍。そこでR&Bチャート、総合ともに1位という快心のヒット「Disco Lady」を飛ばす。

いま思えば、ソウルからディスコの時代への変遷を意識した、見事な方向転換であった。

その後は、マラコへ移籍、ヒットを出すことよりも、アルバムを丁寧に作り込む方向へシフトするようになる。ゆえに、マラコ時代に名盤が多いと評価されているのだが、でも、スタックス時代の華々しさもまた、捨てがたいと思う。

「Who's Making Love」は、ブッカー・T&MG'S、メンフィス・ホーン、ピアノにアイザック・ヘイズとアラン・ジョーンズがバックに入り、レコーディングされた。プロデュースはMG'Sのアル・ジャクスン。

いってみれば、スタックス・オールスターズ。典型的なメンフィス・ソウル・サウンドをバックにつけたのだから、まあ、ウケないわけがない。

曲もいいよね。陽気なノリのわりには、歌詞はドキッとするような不倫ネタ。でもこれがいいスパイスになっている。聴いているうちに、ニヤリとすること間違いなし。

テイラーの特徴ある塩っ辛い声も、そのビターな内容に見事ハマっていると思う。

歯切れのいいリズムに、心を揺さぶるようなワイルドなシャウト。これぞソウル・ミュージックの粋であります。

80年にはブルース・ブラザーズによってカバーされ、再び注目されたナンバー。今聴いても十分イケてると思う。

2000年に亡くなるまで、ドゥ・ワップ、ソウル、ブルース、ディスコとさまざまなサウンドでその懐の深さを見せてきたシンガー、ジョニー・テイラー。彼もまた、稀代のソウル・マンだった。もう一度、そのスゴさを、45年前の音源に感じとってくれ。

この曲を聴く

2013年12月22日(日)

#299 エイミー・グラント「The Christmas Song(Chestnuts)」(A Christmas Album/Reunion)

アメリカの女性シンガー/ソングライター、エイミー・グラント、83年リリースのクリスマス曲集より。メル・トーメ、ロバート・ウェルズの作品。

エイミー・グラントは60年、ジョージア州オーガスタ生まれ。学生時代ナッシュビルのレコーディングスタジオでアルバイトをしたのがきっかけで、クリスチャン・レーベル(白人ゴスペル専門)のワードから78年に17才でデビュー。82年にはアルバム「Age To Age」がミリオン・セラーとなり、ゴールド・ディスクやグラミー賞を獲得するなど、宗教音楽部門では若くしてトップに昇りつめたのである。

その後はポップ部門にも進出する。86年には元シカゴのピーター・セテラとのデュエット曲「The Next Time I Fall」で全米1位となり、それを機にメジャー・デビュー。ソロとしても91年の「Baby Baby」が大ヒット、同じく全米1位となっている。

当年53歳、いまや押しも押されもしない、コンテンポラリー・クリスチャン・ミュージック(CCM)の第一人者だが、その成功はもちろん偶然ではなく、彼女のもつ確かな歌唱力、表現力によるものと断言できる。とにかく、出すレコード出すレコードが、すべて売れるのだから。

きょうの一曲は、ポップシンガーとしてブレイクする前、83年に制作されたクリスマス・アルバムから。CCMのシンガーたちにとって、クリスマス・ソングは最大の活躍の場、腕の見せ所にほかならないが、グラントのこのアルバムも、全編にわたって彼女の歌の才能がいかんなく発揮されている。

そのなかでも今回ピックアップしたのは、46年にジャズ・シンガーのメル・トーメとロバート・ウェルズが共作し、ナット・キング・コールがミリオン・ヒットを放った名曲、「The Christmas Song(Chestnuts)」である。

日本でクリスマスといえば、単なる商店街のお祭り、あるいは恋人たちのイベントと化してしまっているが、キリスト教徒たちの国では、本来は厳粛な儀式であり、そのうえで華やかな祝典としても楽しまれているのだ。

クルスマス・ソングも、ただの浮かれたムードで歌うのでなく、神への敬虔な祈りとともに歌われなければならない。

トーメのメロディ、ウェルズの詩は、そこをきちんとふまえて、おごそかな中にも喜びをたたえた、極上のクリスマス・ソングに仕上がっている。

余談ながら筆者は、トーメの存命中の90年頃に、五反田の郵便貯金ホールへトーメのコンサートを聴きに行ったことがあり、その中でこの歌を聴いたのであるが、感銘の涙を禁じ得なかったのを、昨日のことのように覚えている。

さて、グラント版の「The Christmas Song」だが、キング・コールや作者トーメ自身といったベテランシンガーたちの名唱と比べてもひけをとらぬくらい、清廉で気品に満ちた歌声を聴かせてくれる。

彼女の声は(たとえば似た系統のオリビア・ニュートン・ジョンなどと比較するとよくわかるが)、実に「クセ」がない。個性的とはあまり言えないが、万人に快く受け入れられるタイプの「いい声」なのである。

ブルースのようなアクの強い音楽を歌うにはあまり向いていないが、聖歌、讃美歌、そういった純度の高い音楽を歌うには、グラントの声は一番向いているのだろう。

「一家に一枚」的な、家族全員、いや全米3億人が安心して聴ける音楽。そういう意味で、彼女は最強のシンガーなのかもね。

この曲を聴く

2013年12月29日(日)

#300 サル・サルヴァドール「All The Things You Are」(Frivolous Sal/Bethlehem)

今年最後の一曲、そして、たまたまではあるが、300曲目という節目の一曲はこれだ。アメリカの白人ジャズ・ギタリスト、サル・サルヴァドール、56年発表のアルバムより。ジェローム・カーン=オスカー・ハマーシュタイン二世の作品。

サル・サルヴァドールは25年、マサチューセッツ州モンスン生まれ。コネチカットで育ち、父親の影響でギターを弾き始める。折しもチャーリー・クリスチャンにより、ジャズの世界でもギターがソロ楽器として注目され出した頃。サルヴァドールはクリスチャンに強い影響を受け、ジャズ・ギタリストの道を歩み出したのである。

20代でプロとなり、49年ニューヨークに進出。52年にはスタン・ケントン楽団へ迎えられる。その後独立、ピアニストのエディ・コスタらとともに、自己のグループを結成、ベツレヘム・レーベルで多数のアルバムをレコーディングしている。

その中でも特に評価が高いのが、この「Frivolous Sal」というアルバムで、サルヴァドールはもとより、相棒のエディ・コスタの高い演奏力が存分に発揮された作品に仕上がっている。

きょうの一曲としてピック・アップしたのは、ジャズ・ファンなら知らぬ者のない、スタンダード中のスタンダード「All The Things You Are」、邦題「君は我がすべて」だ。

この曲はもともと、カーン=ハマーシュタインのコンビにより39年、ブロードウェイ・ミュージカル「Very Warm For May」のために書かれた曲なのだが、44年には映画「American Rhythm」、45年に同じく「A Letter For Evie」にて使われたことで広く知られるようになり、さまざまなアーティストにカバーされるようになった。

主な例を上げただけでも、ミルドレッド・ベイリー、グレン・ミラー、フランク・シナトラ、ディジー・ガレスピー、ジョー・スタッフォード、ジャンゴ・ラインハルト&ステファン・グラッペリ、デイヴ・ブルーベック、クリフォード・ブラウン、チャーリー・パーカー、ハンプトン・ホーズ、ジェリー・マリガン、エラ・フィッツジェラルド、スタン・ケントンなどなど、枚挙にいとまがない。単にメロディが美しいというだけでなく、そのコード進行がモダン・ジャズ的な要素を強く持ち、奏者のアドリブを引き出しやすい作りであったことも手伝って、新旧のジャズ・アーティストにこぞって取り上げられたのである。

筆者的には、テナーの巨人、コールマン・ホーキンスによる62年のライブ演奏が、もっとも印象に残っている。テンション・コードが非常に特徴的なイントロから始まるこのナンバーを、いったい何度繰り返し聴いたことだろう。

さて、50〜60年代に活躍したジャズ・ギターの名手、サル・サルヴァドールによる「All The Things You Are」は、ちょっと変わったアレンジのイントロから始まる。

エディ・コスタはここではまずヴァイブラフォンを弾き、サルヴァドールのギターと絡み合うようにして、クラシック室内楽(MJQ?)風の早いパッセージを弾き始めるのだ。まずは、このスピード感に圧倒される。

イントロからそのまま、サルヴァドールがテーマを弾き、すぐにコスタのヴァイブ・ソロにバトンタッチ。神技のようなマレットさばきだ。そしてギター・ソロが続いた後は、なんとコスタがピアノにスイッチ、ソロを弾く。ピアノとギターの掛け合いが続き、さらにはヴァイブとギターの掛け合いへと突入、ものすごく密度の高い演奏が展開されていく。でも、けっして息づまるような感じはせず、あくまでもリラックスしたなごやかな雰囲気だ。本当によくスウィングしている。

最後は、再び室内楽風のアレンジに戻って、見事なエンディング。4分ほどの短い時間の中に、実に多彩なサウンドが詰まっている。

サル・サルヴァドールは、チャーリー・クリスチャンに影響を受けたジャズ・ギタリストのひとりとして、クリスチャンを越えるだけの新しいサウンドは作り出せなかったが、ギター職人としてのワザを極めたといえるだろう。そのシングルトーン・プレイは、とにかく正確無比で、よどみがなかった。ミディアム程度のテンポの曲では、いささか単調な感じは否めないが、この「All The Things You Are」のようなアップテンポの曲調では、そのたしかな技術の威力は、最も発揮されていたと思う。

白人ということもあって、その演奏にはほとんどブルース的なものは感じられず、あくまでもテクニカルなジャズに終始しているのだが、それもまたジャズのひとつのありようだろう。

混血音楽であるジャズの、白人的な要素をもっぱら強調すれば、サルヴァドールのようなジャズとなるのだ。

60年には記録映画「真夏の夜のジャズ」にも登場、ソニー・スティットらとともにニューポート・ジャズ・フェスティバルでの熱演を披露、多くの観客にサル・サルヴァドールの名前を知らしめた。

その後は、モダンジャズの新しい潮流に乗ることもなく、自然と第一線から消えていってしまったものの、大学でジャズ・ギターを教えるなどして、70代までマイペースな音楽人生を送ったようだ。99年没。

31歳で夭折した天才ピアノ/ヴァイブ奏者エディ・コスタの好サポートを得て生み出された、サル・サルヴァドールの名演。今聴いても、十分スゴみを感じます。

この曲を聴く


HOME